愛……見知らぬ者同士による出会いの試み

Osho International Japanese Newsletter November 2012 より
愛……見知らぬ者同士による出会いの試み

Osho,最近、私は、自分の恋人でさえもが見知らぬ人であることがわかりかけてきました。それでもなお、ふたりのあいだにある隔たりを克服したいという、強烈なあこがれがあります。ですが、私たちはまるで、出会うことのできない平行線のようです。愛するOsho,意識の世界も、幾何学の世界と同じなのでしょうか。それとも、この平行線には、交わる可能性もあるのでしょうか。

 それはすべての恋人たちが直面しなければならない大きな悲しみのひとつだ。恋人たちが感じる馴染みのなさ、違和感、隔たりを消し去る方法はない。実のところ、愛がどのように起こるかを全面的に見るならば、恋人同士は完全に反対の性格でなければいけないことがわかる。
違っていればいるほど、引き寄せる力は大きくなる。違いこそが魅力となる。ふたりは非常に接近するが、一体になることはない。

 ふたりは非常に接近するため、もう一歩で一体になれるかのように感じられる。だが、その一歩はけっして起こらない。それは差し迫った理由があってできないのであり、それは自然の法則だ。
 その逆に、非常に近づいたかと思うと、ふたりは互いから離れはじめる。さらにさらにと離れはじめる。密着によって魅力が失われたからだ。ふたりは、互いにけんかをはじめ、不平を言い、意地悪くふるまったりするようになる。それらは、ふたたび距離をもたらそうとする努力だ。そして距離が生まれると、ふたりはふたたび互いの魅力を感じるようになる。
これは周期的に起こることだ。近づいたと思うと離れ、また近づいたかと思うと離れる。
 一体になることへのあこがれがある。だが、生物としての、肉体としてのレベルにおいて、一体になることは不可能だ。セックスのなかでさえ、あなたがたは一体ではない。肉体のレベルにおける隔たりは、避けることができない。

 あなたは言う、「最近、私は、自分の恋人でさえもが見知らぬ人であることがわかりかけてきました」。それはいいことだ。それは理解が増したことによって生まれる認識のひとつだ。互いをよく知っていると思っているのは、子どもじみた人びとだけだ。あなたはあなた自身をさえも知らない。どうして恋人を知っているなどと考えられる。
 あなたの恋人も彼自身を知らず、あなたもまた自分自身を知らない。ふたつの知られざる存在、自分自身についてさえ何も知らない赤の他人同士が、お互いを知り合おうとしている。それはむなしい営みだ。それはかならず欲求不満になる。それはかならず失敗する。だからどんな恋人たちも、相手への怒りを感じている。自分が相手のプライベートな世界へ入ることを、相手が許してくれていないと思っている。「彼は私と距離を置いている。少し離れていたがっている」。そのように感じているのは、ふたりともだ。だが、そう言うのは正しくない。すべての不平は誤っている。ふたりはただ、自然の法則を理解していないのだ。
 肉体のレベルにおいて、ふたりは接近することができるが、一体になることはできない。ハートのレベルにおいてのみ、ふたりは一体になれる。だが、それも一瞬だ。永遠にではない。
 存在のレベルにおいて、ふたりはすでに一体だ。一体になろうと努力する必要はない。その事実を発見するだけでいい。

 あなたは言う、「それでもなお、ふたりのあいだにある隔たりを克服したいという、強烈なあこがれがあります」。それを肉体のレベルで試みるならば、あなたは何度も失敗するだろう。そのあこがれが示すのはただ、愛は肉体を超えて行かなければならないこと、愛は肉体よりも高く、肉体よりも大きな、そして肉体よりも深いものを求めているということだ。
 ハートとハートの出会いでさえ、満足できるものではない。それがどれほど甘く、どれほど莫大な喜びをもたらすものであろうともだ。それは一瞬のあいだ起こるだけであり、見知らぬ者は、見知らぬ者に留まる。存在の世界を見いださないかぎり、あなたは、あなたの一体性へのあこがれを満たすことはできない。そして不思議なのは、あなたがあなたの恋人と一体になった日には、あなたは存在の全体と一体となっていることだ。

 あなたは言う、「私たちはまるで、出会うことのできない平行線のようです」。おそらく、あなたは非ユークリッド幾何学を知らないのだろう。まだ私たちの教育機関では教えられていないのだから。私たちの大学では、いまだに2千年前からのユークリッド幾何学を教えている。
 ユークリッド幾何学では、平行線はけっして交わらない。だが、2本の線を引きつづけるならば、結局は交わる。最近の発見によれば、そもそも平行線を引くことなどできない。だからこそ2本の線は交わるのだ。2本の平行線を引くことはできない。
 新しい発見はとても奇妙だ。直線さえも引くことができない。地球は丸いからだ。ここに直線を引いて、両端をどんどん伸ばしていくならば、それは最後には円になる。そして、無限大にまで伸ばされた直線が円になるなら、それは始めから直線などではなかった。それは巨大な円の一部、すなわち円弧にすぎなかった。それなら、平行線などは言うまでもない。平行線もまた存在しない。
 だから、かりに愛が平行線と同じだと言うならば、恋人同士がどこかで出会う可能性もある。おそらく年をとって、けんかする気力もなくなったとき。あるいはけんかにうんざりしたとき。同じことは何度も議論してきた、同じ問題に何度も苦しんできた、同じ争いは何度も体験してきた。ふたりとも、相手にうんざりしている。
 長いあいだには、恋人たちは、話もしなくなる。どうして話す必要がある? 話をはじめれば口論になる。昔ながらの口論だ。いつまでも変わらない。何度も同じことを口論して、その結末も同じだった。だが、そんなにまでなっても……。幾何学の世界だったら、ふたりは出会っているところだが、愛に関して言うならば、それは絶望的だ。ふたりが出会うことはない。
 そして、ふたりが出会えないことは、いいことだ。なぜなら、もしも恋人同士が、肉体のレベルで、一体性へのあこがれを満足させられるならば、ふたりはけっして上を見ないだろうからだ。ふたりは、肉体の中にはより多くのものが、すなわち意識、魂、神といったものが隠されていることを見いだそうとはしないだろうからだ。

 愛が失敗するのはいいことだ。愛における失敗は、あなたを新たな巡礼に連れ出すのだから。そのあこがれは、あなたを悩ましつづけ、出会いが起こる寺院へとあなたを連れて行くまで、あなたを去らないだろう。だがその出会いはつねに、全体との間に起こる。そのなかにはあなたの恋人も含まれるだろうが、木々や川、山々や星もまた含まれている。その出会いにおいては、ふたつのものだけが欠けている。あなたのエゴはそこにいない。あなたの恋人のエゴもまたそこにいない。そのふたつを除いた、存在のすべてがそこにあるだろう。そしてそのふたつのエゴこそが問題だった。それがふたりを平行線にしていた。
 問題を作り出したのは愛ではなく、エゴだ。だが、あこがれは満たされない。肉体を超えて、寺院へと入る正しいドアを見つけないかぎり、どれだけ生まれ変わっても、そのあこがれは消えないだろう。

 93歳と95歳の老夫婦が、弁護士に離婚の相談を持ちかけた。「離婚だって!」と、弁護士は驚く。「どうしてこんな年になって離婚したいのだね。今はこれまで以上にお互いが必要なときだし、それにもう長くいっしょにいるじゃないか。いったいどうしてだね」
 「それはじゃな」と夫が答える。「わしらは前から離婚したかったが、子どもが死ぬのを待っていたのじゃ」
 ふたりは、ほんとうに待っていた! 子どもたちはみんな死に、今では何も問題がない。やっと離婚できる。それだけ待っても出会いは起こらなかった。起こったのは離婚だけだ。
 あなたのあこがれの火を燃やしつづけなさい。ハートをくじかれてはいけない。
 あなたのあこがれは、あなたの精神性の種子だ。
 あなたのあこがれは、存在との最終的な合一に向けての出発点だ。あなたの恋人はその口実にすぎない。
 悲しまないで、しあわせを感じなさい。肉体のレベルでは出会いの可能性はないことを喜びなさい。もしもそんなことが可能だったとしたら、恋人たちには、変容の可能性がなくなってしまう。ふたりは互いの泥沼にはまり、互いを破壊しただろう。
 そして、見知らぬ人を愛するのは悪いことではない。実際、見知らぬ人を愛したほうがエキサイティングだ。
 ふたりがいっしょにいないときには、互いを魅力的なものとする大きな力がある。いっしょにいればいるほど、魅力は色あせる。表面的なレベルで互いを知れば知るほど、興奮は失せてくる。まもなく、生きることは同じことのくりかえしになる。
 人は、何度も何度も、同じことをくりかえす。世間の人たちの顔を見るがいい。驚くだろう。どうしてこれらの人びとは、こんなに悲しげなのか。どうしてこれらの人びとの目は、すべての希望を失ったかのように見えるのか。その理由は簡単だ。それは同じことのくりかえしだ。人には英知がある。だから同じくりかえしは、退屈をもよおす。退屈は悲しみを呼ぶ。明日に起こることはすでにわかっている。あさってに起こることもわかっている。墓に入るまでのことはすべてわかっている。すべては同じようにつづいていく。同じことのくりかえしだ。

 ユダヤ人とポーランド人が、バーでテレビのニュースを見ていた。ニュースでは、若い女が断崖の上に立って、飛び降りようとしていた。ユダヤ人は、ポーランド人に言った。「賭けをしようじゃないか。彼女が飛び降りたらおれが20ドルもらう。飛び降りなかったら、おまえに20ドル払う。いいかい?」 「いいだろう」とポーランド人は答えた。2、3分後、女は崖から飛び降りて自殺した。ポーランド人は、財布から20ドル出して、ユダヤ人に渡した。
 2、3分後、ユダヤ人は、ポーランド人に言った。「さっき20ドルおまえからもらったけれど、正直言うと、おれは昼間にも、あの女が飛び降りるのをテレビで見てたんだ」「いやいや」と、ポーランド人は言った。「金は返さなくていい。実はおれも、あの女が飛び降りるのを見るのは2回目だったんだ」
 「なんだって。それならどうして飛び降りないほうに賭けた?」とユダヤ人は尋ねた。
 「まさかおれは、2回も飛び降りるような、ばかな女じゃないと思ったんだ」
 だが、人生というものは……。

 世界におけるこの悲しみ、この退屈、この惨めさは、自分は不可能なことを求めていると人びとが気づくならば、変えることができる。
 不可能なことを求めてはならない。
 存在の法則を見いだし、それに従いなさい。
 一体になりたいという、あなたのあこがれ、あなたの精神的な欲求は、あなたの本質から生まれた宗教的性格のものだ。ただ、あなたはそれの誤った箇所に焦点を合わせている。
 あなたの恋人は口実にすぎない。あなたの恋人を、より大きな愛を想起させるひとつの体験にすぎないものとしなさい。それは存在全体への愛だ。
 あなたのあこがれを、あなたの内的な存在の探索に向けなさい。そこではすでに出会いが起こっている。そこではすでに、私たちは一体だ。
 そこでは、かつて分離した者などだれもいない。
 そのあこがれは、まったく正当なものだ。ただ、あこがれの対象だけが誤っている。その過ちが、苦しみと地獄をもたらしている。ただ対象を変えなさい。そうすれば、あなたの生は天国のようになる。  
   
       
The Hidden Splendor

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