OSHO on オーラ、スピリチュアルな体験、奇跡・・・ 

Prem Sheelさんより

質問
オーラが見える人たちとつきあいがあるのですが、
私は取り逃している感じがします。
この視野を分かち合うために何ができるでしょうか?
... 

[OSHO]
アナンド・ブッダ、
神は体験ではない。
そのような体験はスピリチュアルなものではない。

あらゆる体験はマインド・ゲームだ。
気をつけなさい。
何であれ見ることのできるものは幻の世界の一部だ。
見る者が真理だ。
あなたはオーラが見える。
天使が見える。
クンダリーニが上昇するのが見える。
内なる光が見える。

だがそれらはみな見られるものであって、
あなたではない。

見る者とは観照者だ。
そして観照者だけが真実だ。
ほかのすべては夢だ。
そしてこの世的な夢もあれば、
あの世的な夢もある。
物質的(マテリアル)な夢もあれば
精神的(スピリチュアル)な夢もある。
ひとつのことを
いつも覚えていなくてはならない。
何であれ見られるものには価値はないということだ。
たとえそれが神でもだ。
見られる神は無価値だ。

あらゆる体験が消え去り、
あなたがただ一人残されたとき。
何も見るものはなく、
手の内にただ空っぽさだけがある。
まったく何の体験もない。
そうして突然あなたは自身を悟る。
そうしてあなたは自分自身に向かっていく。
そうして自分の源泉へと落ちていく。
そしてそれは体験ではない。
それは理解(realization)だ。

それが「体験」と「理解」という言葉の違いだ。
それはあなたが何かを見たということではない。
体験したということではない。
いまあなたは自分が誰か知っている。

偉大なスーフィーの神秘家マグレビーは言っている。

私たちに幻視(vision)や奇跡を語らないでくれ。
そんなものは遠の昔に超えてしまったから。
私たちはそれらすべてを幻や夢と見て、
決然とそれらを乗り越えた。

アナンド・ブッダ、
あなたはこうしたゲームをする
たくさんの人たちにここで出会うだろう。
彼らは単に時間を無駄にしている。
彼らとの交友を避けなさい。
私はあらゆる類の人たちをひきつけることになる。
スピリチュアリズムに興味のある人たちは特にだ。
彼らは彼らの病すべてをここに持ち込むだろう。
彼らはナンセンスを語るだろう。
彼らは奇跡について、
超常的な体験について語るだろう。
そして当然誰かがそんなことを言い出すと、
まるで自分が何かを逃しているかのような気がしはじめる。
あなたは何も見逃しているわけではない。
というのも彼はただ夢を見ているに過ぎないのだから。  

だが彼はあなたの中にそうした感じをつくりだせる。
何かが欠けている。
成長はうまくいっていない。
あるべきほど成長は早くない。
彼はあなたの中に劣等感を生み出す。
そしてそれは危険なものだ。
劣等感を感じだすと、
あなたは悲しく落ち込み、
胸に重荷がのしかかる。
そしてそれがあなたの成長の妨げとなるだろう。

そしてあなたが望むなら、
そうしたものを見はじめるあらゆる可能性がある。
欲望が夢を生み出す。
あなたが何かを見逃していると思いはじめたら、
すぐにマインドはそれを投影するだろう。
マインドにはいつでもあなたが欲しいものを与える用意がある。
特にこうしたことについてはそうだ。
お金が欲しかったら、それは難しいだろう。
というのもそれはあなたのマインドだけのことではないからだ。
あなたが一国の首相になりたかったら、
それはそんなに簡単なことではない。
それには多くの競争があるだろう。
だが、オーラが見たかったら、そこに競争はない。
そして誰もあなたの邪魔はできない。
あなたは他人のオーラを見ているわけではない。
あなたは自分でそれを生み出している。
それは私的な、愚かな世界だ。
これが愚かという言葉の意味だ。
それは現実世界と共同しない
自身の体験の私的な世界を持つことだ。

私はここで何人かの人たちが
ある種のリーダーシップを楽しんでいることを知っている。
なぜなら周りにいくらかの人たちを集められるからだ。
彼らは秘教的なことを話しはじめている。
そして誰かが秘教的なことについて、
あなたにはわからない隠された真理について話すと必ず、
彼は自分は知者であることを楽しみ、
あなたは無知な人へと引き下げられる。
それは傷つける。
すぐにあなたもまた、
そのような愚かな本を読み話しはじめる。
そうしたものは豊富にある。

ここであなたは
オーラや光、クンダリーニの上昇や
チャクラが開くのを見るために
私といるわけではない。
私は常々あなたのハートに
この真実を叩き込もうとしている。
唯一達成する価値があるのは光明、
ニルヴァーナだけだということを。
自分が誰かを悟ることだ。
ほかのあらゆるものは迂回されなければならない。
こうしたものは道の途上でやってくる。

マインドはまさに最後まであなたを惑わそうとする。
それはすばらしいサイケデリックな、
とてもカラフルで魅惑的な体験を与える。
人はそこで行き詰まりかねない。
LSDなんて目じゃない。
自分の存在に働きかけつづけていれば、
どんなLSDにも開放できない、
はるかに奥深く深遠なものが開示される体験があなたに起こる。

そうすると欲望はそれらに執着することだ。
そしてまさにその欲望があなたを究極の真理から遠ざける。
究極の真理のためにはすべてを犠牲にしなければならない。
すべてのいわゆるスピリチュアルな体験、秘教的な知識、奇跡。
すべてが落とされなければならない。
人は究極の体験へとやってこなければならない。
それは体験ではないのだが…

言葉ではそれを言い表せない。
だからそれは「体験」と呼ばれるが、
それは体験ではない。
なぜなら体験においては、
体験者と体験されるものとに分割があるからだ。
この体験、究極には分割はない。
あなたは知る者であり、
知られるものである。
あなたは見る者であり、
見られるものである。
あなたは体験する者であり、
体験されるものだ。

あなただけがある。

その絶対。純粋な存在の静止点。
それがゴールだ。
そのためにあらゆるものは犠牲にされなければならない。
そうしたものに気をつけなさい。

Osho - The Secret #14

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友達が 
不思議な体験にとらわれすぎないように
と言ってた意味が わかりました

教えてもらって よかったー
大感謝です

ただ 純粋な存在の静止点 というゴールへ向かって進みます

コメント

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