「孤独」それは「独存」の取り違え

今月の講和より関係性について
「孤独」それは「独存」の取り違え
Osho, 先日のお話によると、私たちは独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬということです。ところが、どうやら私たちは生まれたときから、なにをやっていても、自分がどんな人間であろうとも、他人と関係しようとしているようです。さらに言うと、私たちは普通、あるひとりの人間と親密になろうとする傾向があります。それについてどうお考えですか。あなたのたずねた質問は、すべての人に共通する質問でもある。私たちは独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬ。独存はまさに私たちの本性だ。でも私たちはそれに気づいていない。気づいていないからこそ、いつまでも自分自身と疎遠なのだ。
自分の「独存」というのは、じつに美しく、至福と、静寂と、平安に満ち、存在とともにくつろいでいるものだ。なのに、それを追求するかわりに、「孤独」と取り違えてしまう。
 孤独とは独存の取り違えだ。
 いったん自分の独存を孤独と取り違えると、その文脈がすっかり変化する。独存には美があり、壮大さがあり、肯定性がある。孤独とは、貧しく、否定的で、暗く、陰気だ。
  人はみな孤独から逃げ去る。それは傷のようなものだ、痛い。そこから逃れる唯一の道は、群衆のなかに入ること、社会の一員になること、友達をもつこと、家庭をつくること、夫や妻をもつこと、子どもをもつことだ。この群衆のなかで、基本的な努力は、自分の孤独を忘れるということに向けられる。
 でも 今まで誰ひとり、それをうまく忘れた人はいない。自分にとって自然なことは、無視しようとすることはできるが、忘れることはできない。それは何度も何度も自己を主張する。そして問題はいっそう複雑になる。なぜなら一度もそれをあるがままに見たことがないからだ。まるで当然のごとくに、自分は孤独に生まれついたと思っている。
 辞書では意味は同じだ。それは辞書をつくった人びとのマインドを表している。孤独(ロンリネス)と独存(アロンネス)のあい だのたいへんな違いを、彼らは理解していない。孤独とはひとつの隙間(ギャップ)だ。なにかが欠けている。そこをなにかで埋めないといけない。ところが何物でも埋めることができない。なぜならまずそれは第一に誤解だからだ。年を取れば取るほど、その隙間は大きくなる。独りになることが怖いから、人びとは馬鹿げたことをいろいろやる。たとえば独りでトランプをやる。相手はいない。トランプの遊びのなかには、ひとりの人間が両側からプレーできるようなものがある。
 なんとかして忙しくしていたい。その忙しさは、人間相手であったり、仕事のためであったりする——仕事中毒の人間だ。そうした人間にとっては、週末がやってくるのが怖い。なにをしたらいいのか。なにもしなければ、独りぼっちになる。それほど苦痛がともなうことはない。

  知って驚くだろうが、世界中で事故が一番多いのが週末だ。人びとは車に乗って、リゾート地へ、海辺へ、高原へとおしかける。じゅずつなぎだ。着くまでに8時間も、10時間もかかったりする。そして、することはなにもない。みんな群れをなしてやってきているからだ。これでは自分の家、自分の近所、自分の街のほうが、この海辺のリゾートよりも静かだ。みんなやってきている。とにかく、なにかやることが……。
 人びとはトランプをしたり、チェスをしたり、何時間もテレビを見る。
  平均的アメリカ人は1日5時間テレビを見る。またラジオを聴いたりする……自分自身を避けるために。このようなことをするのも、ひとえに、独りになりたくないからだ。それはとても恐ろしい。そしてこの観念は他人から来たものだ。独りが恐ろしいものだなんて、いったい誰が言ったのか。
 独存を知った人間はまったく別なことを言う。独りであることほど、美しく、安らかで、楽しいことはない。
  ところがあなたは群衆に従う。取り違えて暮らしている人はとても多い。誰がツァラトゥストラやゴータマ・ブッダのことなどかまうだろう。こうした一個人は、たぶん間違っていて、たぶん幻想をいだいていて、たぶん自分や他人をだましているのだろうが、大多数の人びとが間違っているはずはない。そして大多数の人びとによれば、独りぼっちになることは人生で最悪の体験だ。地獄だ。
 でも、独りぼっちになることの地獄、その恐怖ゆえにつくりだされた人間関係は、けっして満足をもたらすことはない。その根幹そのものが毒されている。あなたは相手の女性を愛していない。孤独になりたくないから彼女を使っているのだ。彼女のほうもあなたを愛していない。彼女もまた同じパラノイアのなかにいる。独りぼっちになりたくないから、あなたを使っているのだ。

  よくあることだが、愛の名においては、どんなことでも起こりうる——愛を除いては。争いも起こるだろうし、けんかも起こる。それでも孤独であるよりはましだ。少なくとも誰かがそこにいて、あなたは忙しい。だから自分の孤独を忘れられる。でも愛は不可能だ。なぜなら愛の基礎となる土台がないからだ。
 愛はけっして恐怖からは成長しない。

 質問はこうだ、「先日のお話によると、私たちは独りで生まれ、独りで生き、独りで死ぬということです。ところが、どうやら私たちは生まれたときから、なにをやっていても、自分がどんな人間であろうとも、他人と関係しようとしているようです」
このように他人と関係しようとするのは、逃避にほかならない。ほんの小さな赤ん坊でさえも、なにかすることを探そうとする。なにもなかったら、自分の足の親指をしゃぶる。これはまったく意味のない行動だ。そこからはなにも生まれてきはしない。でもそれで忙しくはなる。なにかをやっているのだ。
 駅や、飛行場で、よく見かけるだろう——小さな男の子や女の子がテディ・ベアを抱いている。それがないと眠れない。暗くなると彼らの孤独はいっそう危険なものになる。テディ・ベアがあると安心だ。誰かがいっしょにいてくれる。
 そしてあなたの神は、大人のためのテディ・ベアにほかならない。

  あなたは自分のあるがままでは生きられない。他人に対するあなたの関係性は、関係性ではない。それは醜い。あなたは相手を使っている。そして、相手も自分を使っているということをよく承知している。人を使うというのは、その人を物に、商品に、おとしめることだ。その人に対する尊敬がない。
 「さらに言うと」、質問はつづく、「私たちには普通、あるひとりの人間と親密になろうとする傾向があります」
  そこには心理的な理由がある。あなたは母親や父親によって育てられた。もしあなたが男の子だったら、母親を愛しはじめ、父親に嫉妬しはじめる。なぜなら父親はライバルだからだ。もしあなたが女の子だったら、父親を愛しはじめ、母親を憎むようになる。なぜなら母親はライバルだからだ。これは現在、定説になっている。仮説ではない。そしてその結果、あなたの一生は苦いものになる。男の子は母親のイメージを女性のモデルとして抱きつづける。そしていつもそれによって条件づけされる。これほど近しく、親しく知っている女性はほかにはいない。その顔、その髪の毛、そのぬくもり——すべてが刷り込まれる。これこそが科学用語として使われているものだ。彼の心理に刷り込まれる。そして同様のことが女の子の場合、父親について起こる。
 あなたが成長し、どこかの女性なり男性なりと恋に落ちる。そして、「たぶん私たちは互いのためにつくられたんだ」とか思う。誰も他人のためにつくられはしない。しかし、なぜあなたは特定の人間に魅きつけられるのか。それは刷り込みのせいだ。彼氏はどこか父親に似ているに違いない。彼女はどこか母親に似ているに違いない。
  もちろん、母親の正確な複製であるような女性はいない。そしてあなたは別に、母親を探しているのではない。妻を探しているのだ。しかし内側の刷り込みが、あなたにふさわしい女性を決める。その女性を見たとたん、理屈もなにもなく、たちまち魅力を感じる。内側の刷り込みがたちまち働きはじめる——これこそ自分の女性だ、あるいはこれこそ自分の男性だ、と。
 たまにビーチや、映画館や、庭園などで会うくらいならいいだろう。なぜなら互いをとことんまで知るということはないからだ。ところがあなたはいっしょに住みたがっている。結婚したいと思っている。恋人たちにとってこれほど危険な選択肢はない。
  結婚するやいなや、だんだん相手の全体像がわかってくる、そしてなにを見てもあなたは驚く、「なにかおかしい、これはあの人じゃない」。相手はあなたの抱いてきた理想像にあわない。そして相手の女性も自分の父親という理想像を抱いているから、さらに問題は大きくなる。あなたはその理想にあわない。あなたは母親という理想像を抱き、相手はそれにあわない。だからこそ結婚はすべて失敗となるのだ。
 失敗とならない結婚はひじょうに稀だ。そうした結婚から神が守ってくれたら幸いだ。なぜならそれは心理的に病んでいるからだ。人びとのなかにはサディストがいる。他人を痛めつけて喜ぶ。そして人びとのなかにはマゾヒストがいる。自分自身を痛めつけて喜ぶ。もし夫と妻がその範疇に属するならば、結婚は成功するだろう。一方がマゾヒストで他方がサディストだったら、完璧な結婚だ。一方は痛めつけるのを喜び、他方は痛めつけられるのを喜ぶ。
 でも普通は、まず第一に、自分がマゾヒストかあるいはサディストか気づくのはひじょうに難しい。そして自分の対極にあたる人を見つける……。もしあなたが賢かったら、心理学者のところへ行って、自分がなんなのか診てもらう。マゾヒストなのかサディストなのか基準に照らしてもらう。
 ときに、なにかの偶然で、サディストとマゾヒストが結婚することもある。ふたりは世界で一番幸せな人間だ。互いの要求を満たしている。でもいったいこれはなんという要求か。ふたりはともに精神病者であり、痛みの生を生きる。でもそれ以外、結婚はすべて失敗する。その理由は簡単だ。刷り込みこそが問題なのだ。
 結婚したところで、関係をもとうとした根本的な欲求は満たされない。独身だったときよりも、妻といっしょにいるときのほうが、もっと独りだ。夫婦をひとつの部屋に入れておいたら、ふたりとも不幸せになるばかりだ。

  友人のひとりが引退しようとしていた。大実業家だったが、私のアドバイスで引退を考えた。私は言った、「あなたはたいへん豊かで、息子もいない。娘はふたりいるが、ともに裕福な家に嫁いでいる。だからもう面倒なことにかかわるのはおしまいにしたらいい——ビジネスとか、所得税とか、あれやこれや、すべてやめるんだ。あなたは充分に豊かだ。千年生きたってだいじょうぶだ」
 彼は言った、「たしかにその通りだ。でもほんとうの問題はビジネスのことじゃない。ほんとうの問題は、妻とふたりきりになってしまうことだ。いつ引退してもいいんだが、ただ、ひとつ約束してほしいんだ、私たちといっしょに住んでもらえないだろうか」
 私は言った、「それは変だ。あなたが引退するのか、それとも私が引退するのか」
 彼は言った、「それが条件だ。だいたい私がこうした面倒すべてに興味があると思うかい。すべては妻から逃げるためなんだ」
 妻はたいへんな社会事業家だった。孤児院や、寡婦の家や、とくに、治療費の払えない乞食たちのための病院を運営していた。私もある晩、彼女にたずねてみた、「あなたはこうしたすべてをほんとうに楽しくてやっているのですか——朝から晩まで」
 彼女は言った、「楽しくて? 苦行みたいなものです。自分に課した苦しみです」
 私は言った、「どうして自分で苦しみを課すのですか」
 彼女は言った、「避けるためですよ、あなたのお友達を。ふたりきりになるというのは、人生で最悪の体験です」
  そしてこれは見合い結婚ではなくて恋愛結婚だ。ふたりが結婚したとき、家族全体、社会全体が反対した。なぜなら宗教が違い、カーストが違ったからだ。ところが内側の刷り込みによって、これこそふさわしい女性だ、ふさわしい男性だと感じた。そしてこうしたすべては無意識的に起こる。だからこそ、なぜ自分が特定の女性なり男性と恋に落ちたのか、説明できないのだ。それは意識的な決定ではない。無意識的な刷り込みによって決定されているのだ。
 こうした努力のすべて——関係性なり、様々なやり方で忙殺されようという努力は、自分が孤独だという観念から逃げ出そうとするためだ。そして私は強調したいのだが、ここのところこそ、瞑想者と普通の人の分かれるところだ。

  普通の人はどこまでも自分の孤独を忘れようとするが、瞑想者は自分の独存にもっともっと親しもうとする。世界を離れ、洞窟や、山や、森に行こうとするが、それは独りになるためだ。自分が誰なのか知りたい。群衆のなかではそれは難しい。いろんな邪魔が入る。そして自分の独存を知った人は、人類に可能な最大の至福を知っている。なぜなら自分の存在そのものが至福だからだ。
 自分の独存に親しんだら、人と関係することができる。そうしたらその関係性は大きな喜びをもたらしてくれる。なぜならそれは恐怖からのものではないからだ。独存を見つけたら、創造することができる……好きなだけ物事に関わることができる。なぜならもはやそれは、自分自身から逃げ去ることではないからだ。今それはあなたの表現であり、あなたの潜在性すべての顕われだ。
 そうした人間だけが——独りで生きようと社会に生きようと、結婚していようといまいと関係ない——つねに至福に満ち、安らかで、静かだ。彼の生はダンスであり、歌であり、開花であり、芳香だ。なにをしようとも、彼はそこに芳香を持ち込む。
 しかしまず最初の基本は、自分の独存をどこまでも知ることだ。
  自分自身からの逃避は、群衆から学んできたことだ。みんなが逃げるものだから、あなたも逃げはじめる。子どもはみな群衆のなかに生まれ、人びとをまねするようになる。他人のやっていることをやるようになり、他人と同じような不幸な状況に陥る。そしてこれこそが人生なのだと思うようになる。そして人生をすっかり逃してしまう。
 だからよく言っておくが、独存と孤独とを取り違えてはいけない。孤独はまさに病気だが、独存は完璧な健康だ。

 ギンズバーグがゴールドバーグ医師を訪ねた。「うん、病気ですね」

 「それだけですか、もうちょっとなにか言ってくださいよ」
 「そうですか」ゴールドバーグ医師は言った、「それにあなたはブ男だ」
 私たちはみんないつも同じような取り違えをしている。
  みんなによく知っていてもらいたい——人生の意味を見つけるもっとも基本的な第一歩は、自分の独存のなかに入ることだ。それはあなたの寺院だ。あなたの神の住みかだ。その寺院はほかのどこにも見つけられない。月や、火星に行ったところで……。自分の存在のもっとも内奥の核に入ったら、自分の目が信じられないだろう——自分はこれほどの喜びを、これほどの祝福を、これほどの愛を携えていたのかと。そしてあなたは自分自身の宝から逃げ出そうとしていた。
  こうした尽きせぬ宝を知ったら、人間関係へと、創造へと向かうことができる。自分の愛を分かつことによって、あなたは人びとを助けることだろう。もはや人を使うことがない。自分の愛によって、あなたは人びとに尊厳を与えることだろう。もはや人の貴さをそこなうことがない。そしてあなたは、努力することなく、ひとつの源泉となり、他人がまた自分の宝を見つける助けとなるだろう。なにをつくろうとも、なにをしようとも、およそあらゆるもののなかに、あなたは自分の静寂を、平安を、祝福を拡げることだろう。
 しかしこの基本的なものは、家庭とか、社会とか、大学などによって教えられるものではない。人びとはいつまでも不幸のなかで生きている。そしてそれが当然のように思われている。誰もが不幸だ。だからあなたが不幸であってもどうということはない。あなたが例外だということはありえない。
 しかし私はあなたに言おう。あなたは例外になれる。たんに正しい努力をしていないというだけだ。

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