否定的なマインドを超越する
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否定的なマインドを超越する
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否定的なマインドを超越する
ヴィギャン・バイラヴ・タントラは言う、
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。
たとえば、喉の渇きを感じる。そこで水を飲む。ほのかな満足が得られる。そのとき、水を忘れ渇きを忘れるのだ。自分の感じているほのかな満足にひたり、それによって満たされ、ただひたすら満足を感じなさい。
だが人間のマインドはやっかいだ。不満や不足しか感じない。けっして満足を感じない、けっして充足を感じない。もし不満足だったら、それを感じ、それに よって満たされてしまう。もし喉が渇いていたら、それを感じ、渇きに満たされてしまう。渇きは喉に感じられるが、それが成長すると身体中に感じられるよう になる。さらにやがて、あなたが渇きになってしまう。自分が渇きになったと感じてしまう。もし砂漠のなかにいて、水を得る望みがまったくなかったら、その ときにはきっと「自分は渇いている」というより、「自分は渇きになった」と感じるだろう。
不満が感じられ、苦悩が感じられ、痛みが感じられ る……苦しむときにはいつも、あなたがその苦しみになってしまう。だからこそ生全体が地獄になるのだ。あなたはかつて一度も肯定性を感じたことがない。つ ねに否定性を感じてきた。生というのは、それほど苦に満ちたものではない。あなたがそれを苦に満ちたものにしている。苦というのは、我われの解釈にほかな らない。仏陀のような人間は、今ここにおいて、まさにこの生において幸福だ。クリシュナのような人間は、踊り、笛を吹く。今ここ、この生のなかで、我われ は苦のなかにいるのに、クリシュナは踊っている。生というのは、苦ではないし、至福でもない。至福も苦も、我われが生を見るときの、その解釈、その態度、 その姿勢だ。それはあなたのマインドが生をどうとるかにかかっている。
さあ、自分自身の生涯についてよく考えてごらん。あなたはいままで、幸福 な瞬間というものに気づいたことがあるだろうか――満足、充足、至福の一瞥といったものに――。あなたは気づいたことがない。だが、痛み、苦しみ、悩みに ついては、大いに気がつく。そしてそれを蓄積しつづける。あなたという存在は、蓄積された地獄だ。そしてそれはあなた自身の選択だ。他人によって地獄に突 き落とされたわけではない。あなた自身の選択だ。マインドは否定性を拾い上げ、それを蓄積し、それ自体が否定的になる。そうしてそれは永続的な苦となる。 マインドのなかに否定性が増せば増すほど、あなたは否定的になり、さらに多くの否定性が蓄積される。似たものは似たものを引きつける。そしてそれは何生も 何生もつづく。この否定的姿勢によって、あなたはいっさいを逃してしまう。
この技法は肯定的姿勢をもたらす。肯定的姿勢というのは、通常のマインドやその作用とはまったく逆のものだ。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化する。それを感じ、それとひとつになる。それを過ぎゆくものと考えない。その満足は、より大きな肯定性の一瞥となりうる。
すべては窓のようなものだ。痛みと同化することは、痛みという窓から見ることだ。痛みの窓、苦しみの窓は、地獄に向かって開いている。一方、満ち足りた瞬 間、至福に満ちた瞬間、エクスタシーの瞬間――そんな瞬間とひとつになったら、あなたは別の窓を開ける。〈存在〉は同じものだ、だがあなたの窓がちがって いる。
何らかの行為のなかで満足が感じられたとき、つねにそれを現実化する――つねにだ! 無条件に、つねにだ! 友人に会い幸福を感じる、恋 人に会い幸福を感じる、それを現実化する。幸福をそこに存在させ、その幸福を扉とする。それはマインドを変えることだ。それによって幸福が蓄積されてい く。マインドは肯定的なものへと転じ、同じ世界が別のように見える。
禅僧の睦州(ぼくじゅう)はこう語った、
「世界は同じだ、だがなにものも同じではない。マインドが変わるからだ。あらゆるものは同じままだ、だがなにものも同じではない。私が同じではないからだ」。
あなたはたえず世界を変えようとするが、何をしようと世界は同じままだ。なぜならあなたが同じままだからだ。もっと大きな家を手に入れたところで、もっと 大きな車を手に入れたところで、もっとすばらしい妻や夫を手に入れたところで、何も変わらない。大きな家も大きくはなくなるし、美しい妻や夫も美しくはな くなる。大きな車も依然、小さなままだ。あなたが同じままだからだ。あなたのマインドや、姿勢や、ものの見方が、同じままだ。自分自身を変えずに、いつも ものごとを変えつづける。だから、苦悩している人間だけが、小屋を離れて宮殿へと移る。だがその苦悩している人間はそのままだ。彼は小屋のなかで苦悩して いた、そしていま、宮殿のなかで苦悩している。その苦悩は宮殿並みかも知れない、だが彼は苦悩している。
あなたはいつも自分の苦を持ち運んでい る。どこへ行こうとも、あなたは自分自身とともにいる。だから外側の変化は根本的には変化ではない。たんに見かけ上のものだ。変化があったと感じるだけ で、じつは何の変化もない。変化はただひとつ、革命はただひとつ、突然の変異はただひとつしかない――それはマインドが否定から肯定へと変化することだ。 もしあなたの焦点が苦の上にあったら、あなたは地獄のなかに住む。もし焦点が幸福の上にあったら、まさにその地獄が天国となる。これを試してごらん! きっとあなたの生の質そのものが変わるだろう。
だがあなたの関心は量にある。あなたの関心は、どのくらい量的に豊かになるかにある。質的にでは ない。だがたとえ家を2軒、車を2台もち、銀行預金を増やし、そのほかいろいろな物をもったとしても、あなたの質は同じままだ。豊かさというのは、物質的 なものではない。豊かさとは、マインドの質、生の質に関するものだ。質に関するかぎり、貧乏人であっても豊かでありうるし、豊かな人間であっても貧乏人で ありうる。そして実際、ほとんどの場合、それがそのまま当てはまる。というのも、物質や量に関心のある人間は、自分のなかにある別の次元、つまり質の次元 に、まったく気づいていないからだ。その次元が変化するのは、マインドが肯定的であるときだけだ。
明日の朝から、一日中、心がけてごらん――何 かに対して、美しさや、満足や、至福を感じたら、それを意識する。24時間のうちにはそんな瞬間がいくらでもある。天国がすぐそばにあると感じられるよう な瞬間は、いくらでもある。だがあなたは、あまりにも地獄に結びつけられ、巻き込まれているせいで、いつもそれを逃してしまう。太陽は昇り、花々は開き、 鳥たちは歌い、そよ風は樹々を吹き抜ける。それは起こっている! 小さな子どもが無垢な目であなたを見る、すると至福のほのかな感覚があなたのなかに入り 込む。あるいは、誰かがほほえむと、あなたは至福を感じる。
周囲を見まわし、至福に満ちたものを探してみる。そしてそれによって満たされなさ い。そのときにはいっさいを忘れ、それによって満たされる。それを味わい、それがあなたの存在全体に起こるにまかせる。それとひとつになる。その芳香はあ なたに付き従う。それは一日中、あなたのなかで鳴り響く。その鳴り響く感覚、反響する感覚によって、あなたはもっと肯定的になる。
それは蓄積し ていく。もし朝から始めれば、夜までには、星々に、月に、夜に、闇に、もっとマインドを開いていることだろう。24時間の実験としてこれを行ない、その感 覚がいったいどんなものか感じ取りなさい。いったん、「肯定性によって自分は変わり、別世界へと入っていく」と感じ取ったら、もうそれは手放せなくなる。 焦点全体が、否定性から肯定性へと移る。すると世界に対する見方は変わり、新しくなる。
こんな話がある。仏陀の弟子のひとりが、師のもとを離れようとしていた。その弟子の名前はプルナカーシャパと言った。彼は仏陀にたずねた、「どこへ行ったらいいでしょう。どこへ行ってお言葉を伝えたらいいでしょう」。
仏陀は言った、「どこへでも自分で決めるといい」。
そこで彼は言った、「ではビハールの遠いはずれへ行きます」。その地方はスッカーという名前だった。「スッカー地方へ向かいます」。
仏陀は言った、「それはやめたほうがいい。その地方の住民は、ひどく残忍で、乱暴で、性悪だ。いまだかつて誰もあえてそこへ赴き、彼らに非暴力や愛や慈悲を教えようとはしていない。だからどうか考えなおしてほしい」。
だがプルナカーシャパは言った、「誰も行ったことがないからこそ行かせてほしいのです。いずれ誰かが行かなくてはいけないのですから」。
仏陀は言った、「ではあなたをそこに行かせる前に、三つだけ聞きたいことがある。もしその地方の住民に侮辱されたら、いったいどう感じるかね」。
プルナカーシャパは言った、「たいへん善良な人びとだと感じるでしょう。もし辱めるだけだったら、私を打ちはしないからです。つまり善良な人びとだということです。私を打つこともできたのですから」。
仏陀は言った、「では第二の問いだ。もし彼らに打たれたら、いったいどう感じるかね」。
プルナカーシャパは言った、「たいへん善良な人びとだと感じるでしょう。私を殺すこともできたのに、ただ打つだけなのですから」。
そこで仏陀は言った、「では第三の問いだ。もし彼らにほんとうに殺されたら、死にぎわに、いったいどう感じるかね」。
プルナカーシャパは言った、「あなたとその人びとに感謝します。殺されるということは、多くの過ちに満ちていたであろう生から、解放されるということです。おかげで私は、多くの過ちに満ちていたであろう生から解き放たれます。ですからありがたく感じます」。
そこで仏陀は言った、「よろしい、どこへでも行くといい。全世界はあなたにとって天国だ。もはや何の問題もない。全世界はあなたにとって天国だ。だからどこへでも行くといい」。
このようなマインドにとっては、この世のなかに具合の悪いことは何もない。ところがあなたのマインドにとっては、具合の良いものは何もない。否定的なマイ ンドにとっては、あらゆるものが具合悪い。そのもの自体が悪いわけではない。否定的なマインドには具合悪いものしか見えない、だからこそいっさいが具合悪 い。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。
これはじつに微妙なもの だ。だがじつに甘美でもある。そのなかに入って行けば行くほど、ますます甘美になる。それによってあなたは、新しい甘美さに、芳香に満たされるだろう。要 は、美しいものを探し、醜いものを忘れることだ。するといつか醜いものもまた美しくなる。ただひたすら幸福な瞬間を見つめなさい、そうすればいつか、不幸 と呼べるようなものはなくなる。もはや不幸な瞬間はなくなる。ただひたすら至福に満ちたものにかかわりなさい、そうすればそのうち、苦はなくなってしま う。いっさいが肯定的なマインドによって美しいものとなる。
昨晩あなたは言われました。人はつねに生を肯定的次元において見るべきであって、否定性には重点を置くべきでないと。でもそれは、ひとつの選択ではないでしょうか。またそれは、あるがままの真実に直面することに反するのではないでしょうか。
確かにそれは選択だ。だが否定的な人間は無選択へ飛躍できない。もし飛躍できたとしたら、それは結構なことだ。だがそれは不可能だ。否 定性から無選択へと跳躍することは不可能だ。否定的なマインドには、醜いものしか見えない、死しか見えない、苦しか見えない、生のなかの肯定的な要素は何 も見えない。そして何より、苦を失うことはむずかしい。
こう言うと、おそらくひどく奇妙に思えるだろうが、苦から飛躍するのはむずかしい。幸福 から飛躍するほうが楽だ。幸福であるときに飛躍するほうが楽だ。というのも、幸福とともに勇気が現れるからだ。幸福とともにより高い至福の可能性が開け、 幸福とともに世界全体が我が家のように思える。苦においては、世界はまさにひとつの地獄だ、そこには希望はない。いっさいが絶望的だ。するともはや跳躍は 可能ではない。苦のなかで、人は臆病者になり、そして苦にしがみつく。というのも、少なくとも、この苦は既知だからだ。
不幸であるときには冒険 的になれない。冒険には内側の微妙な幸福が必要だ。幸福であれば、既知を去ることができる。幸福だからこそ、未知を恐れない。すでに幸福が深い現象となっ ているからこそ、「どこにいようとも自分は幸福だ」とわかっている。マインドが肯定的であれば、「地獄などない」とわかっている。自分がどこにいようと も、天国はそこにある。それで未知のなかへと入れる。なぜなら「天国はいつも自分といっしょだ」とわかっているからだ。
よく言われるが、人は天 国か地獄に入ることになっている。これはたわごとだ。誰も天国に入りはしない、誰も地獄に入りはしない。あなたは自分自身の地獄と天国を携えている。どこ へ行くときにも、自分の地獄や天国といっしょに行く。天国や地獄は扉ではない。荷物だ。あなたはそれを携えて行く。
ハートが踊っているときにだ け……幸福で、至福に満ち、肯定的なときにだけ、未踏の地へと飛躍できる。だからこそ私は言う――否定性からは無選択になれない。あなたは自分の苦にしが みつく。苦は既知だ。あなたにとってはおなじみだ。あなたはそれと関係をもっている。だから未知に入るよりも、既知の苦のなかにいるほうがいい。少なくと も、あなたはそれに親しんでいる、その様子がわかっている。その苦に対してなら、周囲に一定の防御機構や鎧をつくり上げている。だが未知の苦だったら、新 たな防御機構がいる。だから既知の苦のなかにいたほうが、未知の苦のなかに入るよりもつねにましだ。
幸福の場合、事態は正反対となる。幸福の場 合は、未知の幸福に向かいたくなる。というのも既知は退屈だからだ。だが、既知の苦については、退屈することはけっしてない。自分の苦について語っている 人びとを見てごらん――それを楽しんでいる。人びとは自分の苦を増幅する、そうして微妙な幸福を感じる。
幸福の場合、あなたは退屈する。それに よって未知へ向かうことができる。未知は魅力的だ。無選択というのは、未知への扉だ。否定性から肯定性へ、肯定性から無選択へ、このようにして人は動かな くてはならない。まず自分のマインドを肯定的にする。地獄から天国へと進む。そして天国から、モクシャへと、つまり天国でも地獄でもない「究極」へと進む ことができる。苦から至福へと進んで初めて、両者を超えた超越へと進める。だからこそスートラは、「まず自分のマインドを否定性から肯定性へと変容せよ」 と言うのだ。この変化は、焦点を変化させることにほかならない。
生というのは、その両方か、あるいは、そのどちらでもない。その両方か、あるい は、そのどちらでもない! それはあなた次第だ――あなたが生をどう見るかにかかっている。否定的なマインドとともに見れば、生は地獄のように見える。そ れは地獄ではない! たんにあなたの解釈だ。
見方を変えて、肯定的に見てごらん。これこそが有神論的態度というものだ。私が人を無神論者とか有 神論者とか呼ぶのは、別に神を信じる信じないの問題ではない。私が有神論者と呼ぶのは、肯定的態度をとる人のことであり、また無神論者と呼ぶのは、否定的 態度をとる人のことだ。それは神を否定するか否かの問題ではなく、生を否定するか否かの問題だ。有神論者とは、「イエス」と言う人、いつもイエスと言うマ インドをもってものを見る人だ。するとすべては完全に変化する。
もし否定的なマインドが、バラの花園にやって来たとしたら、いくらたくさんのバ ラの花があっても、きっとその刺だけを数えるだろう。否定的なマインドにとって、まず第一のものは刺だ、それが重要だ。花々はまぼろしにすぎない、刺だけ が現実だ。彼はそれを数える、そしてもちろん、花にはそれぞれ千の刺がある。そして千の刺を数えてしまったら、もう花の存在が信じられなくなる。彼は言 う、この花はただのまぼろしだ、どうしてこんなに美しい花が、こんなに醜い刺、暴力的な刺とともに存在できるだろう、それは不可能だ、信じがたいことだ ――。たとえ花が存在したところで、もう何の意味もない。千の刺が数えられ、花は消え失せる。
肯定的なマインドは、バラから始める、花から始め る。いったんバラと交感を始めたら、いったんその美しさ、その生命、その天上的な開花を知ったら、刺は消え去る。バラをその美しさにおいて、その最高の可 能性において知った者にとって、また、その奥深くまで見入った者にとっては、刺さえも刺のようには見えない。バラに満たされた目はもう別のものになってい る。すると刺は、この花の守りのように見える。もはや敵ではなくて、花というできごとの一部のように見える。
肯定的なマインドは知っている―― この花が起こるためには刺が必要だった、刺は花を守っている、こういった刺があるからこそ、この花は出現できた……。この肯定的なマインドは、刺にさえ感 謝する。この態度が深まれば、やがて刺が花になる。否定的態度の場合は、花は消え失せる……あるいは、花は刺にさえなる。肯定的なマインドがあってこそ、 あなたはマインドの無緊張状態に到達できる。否定的なマインドにあっては、そこらじゅうが苦ばかりで、ずっと緊張状態がつづく。この否定的で創意に富んだ マインドは、後から後から苦と地獄を出現させる。
仏陀の時代にたいへん有名な教師がいた。その名はサンジャヤ・ベーラッティプッタと言って、極 度に否定的な思想家だった。仏陀は7つの地獄を語った。そこである人がサンジャヤ・ベーラッティプッタのところへ来て言った、「仏陀によれば、地獄は7つ だそうだ」。サンジャヤ・ベーラッティプッタは言った、「その仏陀に言うのだ……あなたは何も知らないってね。地獄は700ある。彼は何も知らないんだ! 7つだけだって! 地獄は700ある。私はそれを全部数えた」。
もしマインドが否定的だったら、700でさえ多すぎはしない。その数はもっと増 えるだろう。それにはきりがない。肯定的なマインドは無緊張になれる。実際、肯定的な人間がどうして緊張できるだろう。また、否定的な人間がどうして無緊 張になれるだろう。否定的なマインドは、瞑想と何のつながりもない。否定的なマインドは反瞑想的だ。瞑想ができない。一匹の蚊でさえ、瞑想をすべて破壊し てしまう。否定的なマインドにとっては、平安への扉、静寂への扉、沈黙への扉は閉ざされている。否定的なマインドは苦をみずから永続化させる。どうしてそ れが無選択へと飛躍できるだろう。
クリシュナムルティは無選択について語りつづける。だがその聴衆は否定的だ。耳は傾けるが、けっして理解しな い。聴衆が理解しないと、クリシュナムルティは苛立つ、なぜなら聴衆に理解してもらえないからだ。彼の言っていることを理解できるのは、肯定的な人間だけ だ。だが肯定的な人びとは、どこへ行く必要もない。クリシュナムルティやラジニーシといった人間のもとへ行く必要がない。否定的なマインドだけが教師を探 し、マスターを探す。
否定的なマインドに対して無選択を語っても、「二元性の超越」を語っても、「否定性と肯定性の両方を生きよ」と語っても、 それは無意味だ。それが非真実だというわけではない。それは真実だ。だが意味がない。聴いている人のことを考慮に入れる必要がある。聴き手のほうが語り手 よりも重要だ。私の見るところ、あなたは否定的だ。だからまず最初に必要なのは、肯定性への変容だ。「否定家」から「肯定家」になることだ。生を「イエ ス」の姿勢で見ることだ。そして「イエス」の姿勢によって、この地球そのものが全面的に変容する。肯定的態度に到達して初めて、無選択へと飛躍できる―― そしてそれは簡単だ、とても簡単だ!
苦は放棄できない。むずかしいことだ。あなたはそれにしがみついてしまう。放棄できるのは幸福だけだ。とい うのも、あなたはもう知っているからだ――否定性を放棄すると、肯定性と肯定的幸福が得られる。否定性を放棄すると、幸福が得られる。たんに否定性を放棄 するだけで、幸福に到達する。そして今度、この幸福も放棄し、この肯定的なマインドも放棄すると、「無限」への扉が開かれる。だが要は、まずその肯定性を 感じることだ。そうして初めて、そうして初めて飛躍ができる。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。
たとえば、喉の渇きを感じる。そこで水を飲む。ほのかな満足が得られる。そのとき、水を忘れ渇きを忘れるのだ。自分の感じているほのかな満足にひたり、それによって満たされ、ただひたすら満足を感じなさい。
だが人間のマインドはやっかいだ。不満や不足しか感じない。けっして満足を感じない、けっして充足を感じない。もし不満足だったら、それを感じ、それに よって満たされてしまう。もし喉が渇いていたら、それを感じ、渇きに満たされてしまう。渇きは喉に感じられるが、それが成長すると身体中に感じられるよう になる。さらにやがて、あなたが渇きになってしまう。自分が渇きになったと感じてしまう。もし砂漠のなかにいて、水を得る望みがまったくなかったら、その ときにはきっと「自分は渇いている」というより、「自分は渇きになった」と感じるだろう。
不満が感じられ、苦悩が感じられ、痛みが感じられ る……苦しむときにはいつも、あなたがその苦しみになってしまう。だからこそ生全体が地獄になるのだ。あなたはかつて一度も肯定性を感じたことがない。つ ねに否定性を感じてきた。生というのは、それほど苦に満ちたものではない。あなたがそれを苦に満ちたものにしている。苦というのは、我われの解釈にほかな らない。仏陀のような人間は、今ここにおいて、まさにこの生において幸福だ。クリシュナのような人間は、踊り、笛を吹く。今ここ、この生のなかで、我われ は苦のなかにいるのに、クリシュナは踊っている。生というのは、苦ではないし、至福でもない。至福も苦も、我われが生を見るときの、その解釈、その態度、 その姿勢だ。それはあなたのマインドが生をどうとるかにかかっている。
さあ、自分自身の生涯についてよく考えてごらん。あなたはいままで、幸福 な瞬間というものに気づいたことがあるだろうか――満足、充足、至福の一瞥といったものに――。あなたは気づいたことがない。だが、痛み、苦しみ、悩みに ついては、大いに気がつく。そしてそれを蓄積しつづける。あなたという存在は、蓄積された地獄だ。そしてそれはあなた自身の選択だ。他人によって地獄に突 き落とされたわけではない。あなた自身の選択だ。マインドは否定性を拾い上げ、それを蓄積し、それ自体が否定的になる。そうしてそれは永続的な苦となる。 マインドのなかに否定性が増せば増すほど、あなたは否定的になり、さらに多くの否定性が蓄積される。似たものは似たものを引きつける。そしてそれは何生も 何生もつづく。この否定的姿勢によって、あなたはいっさいを逃してしまう。
この技法は肯定的姿勢をもたらす。肯定的姿勢というのは、通常のマインドやその作用とはまったく逆のものだ。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化する。それを感じ、それとひとつになる。それを過ぎゆくものと考えない。その満足は、より大きな肯定性の一瞥となりうる。
すべては窓のようなものだ。痛みと同化することは、痛みという窓から見ることだ。痛みの窓、苦しみの窓は、地獄に向かって開いている。一方、満ち足りた瞬 間、至福に満ちた瞬間、エクスタシーの瞬間――そんな瞬間とひとつになったら、あなたは別の窓を開ける。〈存在〉は同じものだ、だがあなたの窓がちがって いる。
何らかの行為のなかで満足が感じられたとき、つねにそれを現実化する――つねにだ! 無条件に、つねにだ! 友人に会い幸福を感じる、恋 人に会い幸福を感じる、それを現実化する。幸福をそこに存在させ、その幸福を扉とする。それはマインドを変えることだ。それによって幸福が蓄積されてい く。マインドは肯定的なものへと転じ、同じ世界が別のように見える。
禅僧の睦州(ぼくじゅう)はこう語った、
「世界は同じだ、だがなにものも同じではない。マインドが変わるからだ。あらゆるものは同じままだ、だがなにものも同じではない。私が同じではないからだ」。
あなたはたえず世界を変えようとするが、何をしようと世界は同じままだ。なぜならあなたが同じままだからだ。もっと大きな家を手に入れたところで、もっと 大きな車を手に入れたところで、もっとすばらしい妻や夫を手に入れたところで、何も変わらない。大きな家も大きくはなくなるし、美しい妻や夫も美しくはな くなる。大きな車も依然、小さなままだ。あなたが同じままだからだ。あなたのマインドや、姿勢や、ものの見方が、同じままだ。自分自身を変えずに、いつも ものごとを変えつづける。だから、苦悩している人間だけが、小屋を離れて宮殿へと移る。だがその苦悩している人間はそのままだ。彼は小屋のなかで苦悩して いた、そしていま、宮殿のなかで苦悩している。その苦悩は宮殿並みかも知れない、だが彼は苦悩している。
あなたはいつも自分の苦を持ち運んでい る。どこへ行こうとも、あなたは自分自身とともにいる。だから外側の変化は根本的には変化ではない。たんに見かけ上のものだ。変化があったと感じるだけ で、じつは何の変化もない。変化はただひとつ、革命はただひとつ、突然の変異はただひとつしかない――それはマインドが否定から肯定へと変化することだ。 もしあなたの焦点が苦の上にあったら、あなたは地獄のなかに住む。もし焦点が幸福の上にあったら、まさにその地獄が天国となる。これを試してごらん! きっとあなたの生の質そのものが変わるだろう。
だがあなたの関心は量にある。あなたの関心は、どのくらい量的に豊かになるかにある。質的にでは ない。だがたとえ家を2軒、車を2台もち、銀行預金を増やし、そのほかいろいろな物をもったとしても、あなたの質は同じままだ。豊かさというのは、物質的 なものではない。豊かさとは、マインドの質、生の質に関するものだ。質に関するかぎり、貧乏人であっても豊かでありうるし、豊かな人間であっても貧乏人で ありうる。そして実際、ほとんどの場合、それがそのまま当てはまる。というのも、物質や量に関心のある人間は、自分のなかにある別の次元、つまり質の次元 に、まったく気づいていないからだ。その次元が変化するのは、マインドが肯定的であるときだけだ。
明日の朝から、一日中、心がけてごらん――何 かに対して、美しさや、満足や、至福を感じたら、それを意識する。24時間のうちにはそんな瞬間がいくらでもある。天国がすぐそばにあると感じられるよう な瞬間は、いくらでもある。だがあなたは、あまりにも地獄に結びつけられ、巻き込まれているせいで、いつもそれを逃してしまう。太陽は昇り、花々は開き、 鳥たちは歌い、そよ風は樹々を吹き抜ける。それは起こっている! 小さな子どもが無垢な目であなたを見る、すると至福のほのかな感覚があなたのなかに入り 込む。あるいは、誰かがほほえむと、あなたは至福を感じる。
周囲を見まわし、至福に満ちたものを探してみる。そしてそれによって満たされなさ い。そのときにはいっさいを忘れ、それによって満たされる。それを味わい、それがあなたの存在全体に起こるにまかせる。それとひとつになる。その芳香はあ なたに付き従う。それは一日中、あなたのなかで鳴り響く。その鳴り響く感覚、反響する感覚によって、あなたはもっと肯定的になる。
それは蓄積し ていく。もし朝から始めれば、夜までには、星々に、月に、夜に、闇に、もっとマインドを開いていることだろう。24時間の実験としてこれを行ない、その感 覚がいったいどんなものか感じ取りなさい。いったん、「肯定性によって自分は変わり、別世界へと入っていく」と感じ取ったら、もうそれは手放せなくなる。 焦点全体が、否定性から肯定性へと移る。すると世界に対する見方は変わり、新しくなる。
こんな話がある。仏陀の弟子のひとりが、師のもとを離れようとしていた。その弟子の名前はプルナカーシャパと言った。彼は仏陀にたずねた、「どこへ行ったらいいでしょう。どこへ行ってお言葉を伝えたらいいでしょう」。
仏陀は言った、「どこへでも自分で決めるといい」。
そこで彼は言った、「ではビハールの遠いはずれへ行きます」。その地方はスッカーという名前だった。「スッカー地方へ向かいます」。
仏陀は言った、「それはやめたほうがいい。その地方の住民は、ひどく残忍で、乱暴で、性悪だ。いまだかつて誰もあえてそこへ赴き、彼らに非暴力や愛や慈悲を教えようとはしていない。だからどうか考えなおしてほしい」。
だがプルナカーシャパは言った、「誰も行ったことがないからこそ行かせてほしいのです。いずれ誰かが行かなくてはいけないのですから」。
仏陀は言った、「ではあなたをそこに行かせる前に、三つだけ聞きたいことがある。もしその地方の住民に侮辱されたら、いったいどう感じるかね」。
プルナカーシャパは言った、「たいへん善良な人びとだと感じるでしょう。もし辱めるだけだったら、私を打ちはしないからです。つまり善良な人びとだということです。私を打つこともできたのですから」。
仏陀は言った、「では第二の問いだ。もし彼らに打たれたら、いったいどう感じるかね」。
プルナカーシャパは言った、「たいへん善良な人びとだと感じるでしょう。私を殺すこともできたのに、ただ打つだけなのですから」。
そこで仏陀は言った、「では第三の問いだ。もし彼らにほんとうに殺されたら、死にぎわに、いったいどう感じるかね」。
プルナカーシャパは言った、「あなたとその人びとに感謝します。殺されるということは、多くの過ちに満ちていたであろう生から、解放されるということです。おかげで私は、多くの過ちに満ちていたであろう生から解き放たれます。ですからありがたく感じます」。
そこで仏陀は言った、「よろしい、どこへでも行くといい。全世界はあなたにとって天国だ。もはや何の問題もない。全世界はあなたにとって天国だ。だからどこへでも行くといい」。
このようなマインドにとっては、この世のなかに具合の悪いことは何もない。ところがあなたのマインドにとっては、具合の良いものは何もない。否定的なマイ ンドにとっては、あらゆるものが具合悪い。そのもの自体が悪いわけではない。否定的なマインドには具合悪いものしか見えない、だからこそいっさいが具合悪 い。
何らかの行為のなかで、満足が感じられたとき、つねにそれを現実化せよ。
これはじつに微妙なもの だ。だがじつに甘美でもある。そのなかに入って行けば行くほど、ますます甘美になる。それによってあなたは、新しい甘美さに、芳香に満たされるだろう。要 は、美しいものを探し、醜いものを忘れることだ。するといつか醜いものもまた美しくなる。ただひたすら幸福な瞬間を見つめなさい、そうすればいつか、不幸 と呼べるようなものはなくなる。もはや不幸な瞬間はなくなる。ただひたすら至福に満ちたものにかかわりなさい、そうすればそのうち、苦はなくなってしま う。いっさいが肯定的なマインドによって美しいものとなる。
昨晩あなたは言われました。人はつねに生を肯定的次元において見るべきであって、否定性には重点を置くべきでないと。でもそれは、ひとつの選択ではないでしょうか。またそれは、あるがままの真実に直面することに反するのではないでしょうか。
確かにそれは選択だ。だが否定的な人間は無選択へ飛躍できない。もし飛躍できたとしたら、それは結構なことだ。だがそれは不可能だ。否 定性から無選択へと跳躍することは不可能だ。否定的なマインドには、醜いものしか見えない、死しか見えない、苦しか見えない、生のなかの肯定的な要素は何 も見えない。そして何より、苦を失うことはむずかしい。
こう言うと、おそらくひどく奇妙に思えるだろうが、苦から飛躍するのはむずかしい。幸福 から飛躍するほうが楽だ。幸福であるときに飛躍するほうが楽だ。というのも、幸福とともに勇気が現れるからだ。幸福とともにより高い至福の可能性が開け、 幸福とともに世界全体が我が家のように思える。苦においては、世界はまさにひとつの地獄だ、そこには希望はない。いっさいが絶望的だ。するともはや跳躍は 可能ではない。苦のなかで、人は臆病者になり、そして苦にしがみつく。というのも、少なくとも、この苦は既知だからだ。
不幸であるときには冒険 的になれない。冒険には内側の微妙な幸福が必要だ。幸福であれば、既知を去ることができる。幸福だからこそ、未知を恐れない。すでに幸福が深い現象となっ ているからこそ、「どこにいようとも自分は幸福だ」とわかっている。マインドが肯定的であれば、「地獄などない」とわかっている。自分がどこにいようと も、天国はそこにある。それで未知のなかへと入れる。なぜなら「天国はいつも自分といっしょだ」とわかっているからだ。
よく言われるが、人は天 国か地獄に入ることになっている。これはたわごとだ。誰も天国に入りはしない、誰も地獄に入りはしない。あなたは自分自身の地獄と天国を携えている。どこ へ行くときにも、自分の地獄や天国といっしょに行く。天国や地獄は扉ではない。荷物だ。あなたはそれを携えて行く。
ハートが踊っているときにだ け……幸福で、至福に満ち、肯定的なときにだけ、未踏の地へと飛躍できる。だからこそ私は言う――否定性からは無選択になれない。あなたは自分の苦にしが みつく。苦は既知だ。あなたにとってはおなじみだ。あなたはそれと関係をもっている。だから未知に入るよりも、既知の苦のなかにいるほうがいい。少なくと も、あなたはそれに親しんでいる、その様子がわかっている。その苦に対してなら、周囲に一定の防御機構や鎧をつくり上げている。だが未知の苦だったら、新 たな防御機構がいる。だから既知の苦のなかにいたほうが、未知の苦のなかに入るよりもつねにましだ。
幸福の場合、事態は正反対となる。幸福の場 合は、未知の幸福に向かいたくなる。というのも既知は退屈だからだ。だが、既知の苦については、退屈することはけっしてない。自分の苦について語っている 人びとを見てごらん――それを楽しんでいる。人びとは自分の苦を増幅する、そうして微妙な幸福を感じる。
幸福の場合、あなたは退屈する。それに よって未知へ向かうことができる。未知は魅力的だ。無選択というのは、未知への扉だ。否定性から肯定性へ、肯定性から無選択へ、このようにして人は動かな くてはならない。まず自分のマインドを肯定的にする。地獄から天国へと進む。そして天国から、モクシャへと、つまり天国でも地獄でもない「究極」へと進む ことができる。苦から至福へと進んで初めて、両者を超えた超越へと進める。だからこそスートラは、「まず自分のマインドを否定性から肯定性へと変容せよ」 と言うのだ。この変化は、焦点を変化させることにほかならない。
生というのは、その両方か、あるいは、そのどちらでもない。その両方か、あるい は、そのどちらでもない! それはあなた次第だ――あなたが生をどう見るかにかかっている。否定的なマインドとともに見れば、生は地獄のように見える。そ れは地獄ではない! たんにあなたの解釈だ。
見方を変えて、肯定的に見てごらん。これこそが有神論的態度というものだ。私が人を無神論者とか有 神論者とか呼ぶのは、別に神を信じる信じないの問題ではない。私が有神論者と呼ぶのは、肯定的態度をとる人のことであり、また無神論者と呼ぶのは、否定的 態度をとる人のことだ。それは神を否定するか否かの問題ではなく、生を否定するか否かの問題だ。有神論者とは、「イエス」と言う人、いつもイエスと言うマ インドをもってものを見る人だ。するとすべては完全に変化する。
もし否定的なマインドが、バラの花園にやって来たとしたら、いくらたくさんのバ ラの花があっても、きっとその刺だけを数えるだろう。否定的なマインドにとって、まず第一のものは刺だ、それが重要だ。花々はまぼろしにすぎない、刺だけ が現実だ。彼はそれを数える、そしてもちろん、花にはそれぞれ千の刺がある。そして千の刺を数えてしまったら、もう花の存在が信じられなくなる。彼は言 う、この花はただのまぼろしだ、どうしてこんなに美しい花が、こんなに醜い刺、暴力的な刺とともに存在できるだろう、それは不可能だ、信じがたいことだ ――。たとえ花が存在したところで、もう何の意味もない。千の刺が数えられ、花は消え失せる。
肯定的なマインドは、バラから始める、花から始め る。いったんバラと交感を始めたら、いったんその美しさ、その生命、その天上的な開花を知ったら、刺は消え去る。バラをその美しさにおいて、その最高の可 能性において知った者にとって、また、その奥深くまで見入った者にとっては、刺さえも刺のようには見えない。バラに満たされた目はもう別のものになってい る。すると刺は、この花の守りのように見える。もはや敵ではなくて、花というできごとの一部のように見える。
肯定的なマインドは知っている―― この花が起こるためには刺が必要だった、刺は花を守っている、こういった刺があるからこそ、この花は出現できた……。この肯定的なマインドは、刺にさえ感 謝する。この態度が深まれば、やがて刺が花になる。否定的態度の場合は、花は消え失せる……あるいは、花は刺にさえなる。肯定的なマインドがあってこそ、 あなたはマインドの無緊張状態に到達できる。否定的なマインドにあっては、そこらじゅうが苦ばかりで、ずっと緊張状態がつづく。この否定的で創意に富んだ マインドは、後から後から苦と地獄を出現させる。
仏陀の時代にたいへん有名な教師がいた。その名はサンジャヤ・ベーラッティプッタと言って、極 度に否定的な思想家だった。仏陀は7つの地獄を語った。そこである人がサンジャヤ・ベーラッティプッタのところへ来て言った、「仏陀によれば、地獄は7つ だそうだ」。サンジャヤ・ベーラッティプッタは言った、「その仏陀に言うのだ……あなたは何も知らないってね。地獄は700ある。彼は何も知らないんだ! 7つだけだって! 地獄は700ある。私はそれを全部数えた」。
もしマインドが否定的だったら、700でさえ多すぎはしない。その数はもっと増 えるだろう。それにはきりがない。肯定的なマインドは無緊張になれる。実際、肯定的な人間がどうして緊張できるだろう。また、否定的な人間がどうして無緊 張になれるだろう。否定的なマインドは、瞑想と何のつながりもない。否定的なマインドは反瞑想的だ。瞑想ができない。一匹の蚊でさえ、瞑想をすべて破壊し てしまう。否定的なマインドにとっては、平安への扉、静寂への扉、沈黙への扉は閉ざされている。否定的なマインドは苦をみずから永続化させる。どうしてそ れが無選択へと飛躍できるだろう。
クリシュナムルティは無選択について語りつづける。だがその聴衆は否定的だ。耳は傾けるが、けっして理解しな い。聴衆が理解しないと、クリシュナムルティは苛立つ、なぜなら聴衆に理解してもらえないからだ。彼の言っていることを理解できるのは、肯定的な人間だけ だ。だが肯定的な人びとは、どこへ行く必要もない。クリシュナムルティやラジニーシといった人間のもとへ行く必要がない。否定的なマインドだけが教師を探 し、マスターを探す。
否定的なマインドに対して無選択を語っても、「二元性の超越」を語っても、「否定性と肯定性の両方を生きよ」と語っても、 それは無意味だ。それが非真実だというわけではない。それは真実だ。だが意味がない。聴いている人のことを考慮に入れる必要がある。聴き手のほうが語り手 よりも重要だ。私の見るところ、あなたは否定的だ。だからまず最初に必要なのは、肯定性への変容だ。「否定家」から「肯定家」になることだ。生を「イエ ス」の姿勢で見ることだ。そして「イエス」の姿勢によって、この地球そのものが全面的に変容する。肯定的態度に到達して初めて、無選択へと飛躍できる―― そしてそれは簡単だ、とても簡単だ!
苦は放棄できない。むずかしいことだ。あなたはそれにしがみついてしまう。放棄できるのは幸福だけだ。とい うのも、あなたはもう知っているからだ――否定性を放棄すると、肯定性と肯定的幸福が得られる。否定性を放棄すると、幸福が得られる。たんに否定性を放棄 するだけで、幸福に到達する。そして今度、この幸福も放棄し、この肯定的なマインドも放棄すると、「無限」への扉が開かれる。だが要は、まずその肯定性を 感じることだ。そうして初めて、そうして初めて飛躍ができる。
Osho, The Book of Secrets, Vol.1 #35,#36 より抜粋、
邦訳本としては「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ 第5巻」
邦訳本としては「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ 第5巻」
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