あなたに責任がある
「OSHOサニヤシンになろう」より OSHOの講和
質問:私はよく、他人に嫌な気分にさせられます。
これを、どうやって変えたらいいでしょうか?
凡庸な心はつねに、責任を他の誰かに投げつける。
あなたを苦しめるのは、つねに他人だ。
妻があなたを苦しめ、 夫があなたを苦しめ、
両親があなたを苦しめ、 子供達があなたを苦しめ、
あるいは、社会の経済システム、 資本主義、 共産主義、
ファシズム、 優勢な政治イデオロギー、 社会構造、
それとも運命、 カルマ、 神・・・ ありとあらゆるものが!
人々はあの手この手で、責任を回避しようとする。
だが、他の誰かが、Xが、Yが、Zが自分を苦しめている、と言った途端に、
あなたは、それを変えることが出来なくなる。
何が出来るだろう?
社会が変革されて、共産主義の時代になり、階級のない世界になって、
ようやく誰もが幸せになる。 そうなるまで、それは不可能だ。
貧しい社会で、どうして幸せになれるだろう?
資本家に牛耳られている社会で、どうして幸せになれるだろう?
官僚主義社会で、どうして幸せになれるだろう?
自由を認めない社会で、どうして幸せになれるだろう?
口実、また口実、また口実・・・
たったひとつの洞察、
「私は、自分に責任がある。 誰も、私の責任を取れない。
これは絶対に、完全に私の責任だ。
私自身が、私の今の状態を創り出したのだ」
という洞察を、避けるための口実。
それが、この経文の意味だ。
『すべての非難が、一箇所に集まってくる、それは、あなたへと集まってくる。
ひとたび、この洞察が定まったなら・・・』
「私は、自分の人生に責任がある・・・
すべての苦しみ、すべての痛み、私に起こったこと、起こっていることのすべて・・・
それは、私がそうなるように選択したのだ。
これは私がまいた種であり、今、その結果を収穫している。 私に責任がある」
ひとたびこの洞察が、あなたの中で自然な理解になったなら、
その時、他のすべてのことが簡単になる。
その時、人生は新たな展開を見せ始め、新たな次元へと進み始める。
その次元とは、転換、変革、変容だ・・・
というのも、ひとたび自分に責任があると分かったなら、
それを落とそうと決意すれば、いつでも、それを落とすことが出来る、
ということも分かるからだ。
私がそれを落とすことを、誰も止められない。
あなたが自分の惨めさを落とすことを、惨めさを、至福に変容することを、
誰が止められるだろう? 誰にも止められない。
あなたがたとえ監獄の中で、鎖につながれ、閉じ込められていても、
誰も、「あなた」を閉じ込めることは出来ない。
あなたの魂は依然として、自由なままだ。
もちろんあなたは、きわめて制約された状況の中にいるが、
その制約された状況の中でも、あなたは、歌を唄うことが出来る。
自分の無力さに、涙を流すことも出来れば、歌を唄うことも出来る。
足を鎖をつながれていても、踊ることが出来る。
その時には、鎖の音でさえメロディを奏でるだろう。
次の経文・・・ 『あらゆる人に感謝しなさい』
アティーシャは、まったくもって科学的だ。
最初に彼は言う・・・ 『すべての責任を、自分で取りなさい』
次に彼は言う・・・ 『あらゆる人に感謝しなさい』
あなたの惨めさについて、あなた以外、他の誰にも責任がないとしたら・・・
惨めさはすべて、自分自身が創り出したものだとしたら、
後には、何が残っているだろう?
『あらゆる人に感謝しなさい』
なぜならあらゆる人が、あなたが変容される空間を創り出しているからだ・・・
あなたの邪魔をしているつもりの人達でさえ、あなたが敵だと思っている人達でさえ。
あなたの友人達、 あなたの敵達、 善い人達も悪い人達も、
順境にある時も、 逆境にある時も・・・ そのすべてが一丸となって、
あなたが変容されて、ブッダとなり得る状況を創り出している。
あらゆる人に感謝しなさい・・・
助けてくれた人達、 妨害をした人達、 無関心だった人達に。
あらゆる人に感謝しなさい、
なぜなら、彼らは一丸となってブッダが生まれる、
あなたがブッダになる状況を、創り出しているからだ。
OSHO:Book of Wisdom, Chapter5
「アティーシャの知恵の書、上巻」(市民出版社)
by mudito
-------------------------------------------------------------
去年の夏 ある人が現れたときから
私の苦痛ははじまりました。
なんでこんなことに と現実をうらみ
冬には 人生でも数本の指に入るくらいの ひどい風邪をひきました。
ひとつ片付いても また次・・・
その繰り返しでした。
でも 最近になって思ったんです。
もし 何か意味があってその人が私の前に現れたなら
それは なんなんだろう・・・ って
天地に祈ってみたり
考えてみたりしながら 日を過ごすうちに
ついにその意味がわかりました
そして
その瞬間から すべてが変わりました
あれほど苦痛だったことが
自分にとって なんでもないことになったんです。
私が理解したことを 補足してくれるような出来事にも遭遇しました
もちろん もうちょっとこうしてくれたら と思うこともありますが 今は
まあ 今度あったら お願いしよう 急ぐこともないし
と なっています
心が信じられないくらい楽になったのです
本当に不思議です
まさに このOSHOの講和で語られているように
どんな人であっても それは 自分を導いてくれていたり
教えをさずけてくれているのかな
と 今は思います
自分を会社から追い出す人がいたら
もしかしたら
あなたが 自分からは出ていけないので
そこから 出してくれたのかもしれないんですよね
あなたが 行くべき道へ行けるように
もしそこで 相手を恨んで ずっと相手にフォーカスしてしまったら
せっかく天地が用意した本道がそこにあっても
見えないまま 別の道を歩き続けることになるかもしれません
何かに自分の心が反応するとしたら
そこには 何かがあるんだと思います
だって 他の人にとってそれは なんでもないことかもしれません
でも あなたは 反応した・・・
今度そんなことがあったら
いいことでもわるいことでもなく
ただ
どういう意味があるのかと ぜひぜひ自分に問いかけて見てください
時間がかかっても かならず天は答えをくれると思います
質問:私はよく、他人に嫌な気分にさせられます。
これを、どうやって変えたらいいでしょうか?
凡庸な心はつねに、責任を他の誰かに投げつける。
あなたを苦しめるのは、つねに他人だ。
妻があなたを苦しめ、 夫があなたを苦しめ、
両親があなたを苦しめ、 子供達があなたを苦しめ、
あるいは、社会の経済システム、 資本主義、 共産主義、
ファシズム、 優勢な政治イデオロギー、 社会構造、
それとも運命、 カルマ、 神・・・ ありとあらゆるものが!
人々はあの手この手で、責任を回避しようとする。
だが、他の誰かが、Xが、Yが、Zが自分を苦しめている、と言った途端に、
あなたは、それを変えることが出来なくなる。
何が出来るだろう?
社会が変革されて、共産主義の時代になり、階級のない世界になって、
ようやく誰もが幸せになる。 そうなるまで、それは不可能だ。
貧しい社会で、どうして幸せになれるだろう?
資本家に牛耳られている社会で、どうして幸せになれるだろう?
官僚主義社会で、どうして幸せになれるだろう?
自由を認めない社会で、どうして幸せになれるだろう?
口実、また口実、また口実・・・
たったひとつの洞察、
「私は、自分に責任がある。 誰も、私の責任を取れない。
これは絶対に、完全に私の責任だ。
私自身が、私の今の状態を創り出したのだ」
という洞察を、避けるための口実。
それが、この経文の意味だ。
『すべての非難が、一箇所に集まってくる、それは、あなたへと集まってくる。
ひとたび、この洞察が定まったなら・・・』
「私は、自分の人生に責任がある・・・
すべての苦しみ、すべての痛み、私に起こったこと、起こっていることのすべて・・・
それは、私がそうなるように選択したのだ。
これは私がまいた種であり、今、その結果を収穫している。 私に責任がある」
ひとたびこの洞察が、あなたの中で自然な理解になったなら、
その時、他のすべてのことが簡単になる。
その時、人生は新たな展開を見せ始め、新たな次元へと進み始める。
その次元とは、転換、変革、変容だ・・・
というのも、ひとたび自分に責任があると分かったなら、
それを落とそうと決意すれば、いつでも、それを落とすことが出来る、
ということも分かるからだ。
私がそれを落とすことを、誰も止められない。
あなたが自分の惨めさを落とすことを、惨めさを、至福に変容することを、
誰が止められるだろう? 誰にも止められない。
あなたがたとえ監獄の中で、鎖につながれ、閉じ込められていても、
誰も、「あなた」を閉じ込めることは出来ない。
あなたの魂は依然として、自由なままだ。
もちろんあなたは、きわめて制約された状況の中にいるが、
その制約された状況の中でも、あなたは、歌を唄うことが出来る。
自分の無力さに、涙を流すことも出来れば、歌を唄うことも出来る。
足を鎖をつながれていても、踊ることが出来る。
その時には、鎖の音でさえメロディを奏でるだろう。
次の経文・・・ 『あらゆる人に感謝しなさい』
アティーシャは、まったくもって科学的だ。
最初に彼は言う・・・ 『すべての責任を、自分で取りなさい』
次に彼は言う・・・ 『あらゆる人に感謝しなさい』
あなたの惨めさについて、あなた以外、他の誰にも責任がないとしたら・・・
惨めさはすべて、自分自身が創り出したものだとしたら、
後には、何が残っているだろう?
『あらゆる人に感謝しなさい』
なぜならあらゆる人が、あなたが変容される空間を創り出しているからだ・・・
あなたの邪魔をしているつもりの人達でさえ、あなたが敵だと思っている人達でさえ。
あなたの友人達、 あなたの敵達、 善い人達も悪い人達も、
順境にある時も、 逆境にある時も・・・ そのすべてが一丸となって、
あなたが変容されて、ブッダとなり得る状況を創り出している。
あらゆる人に感謝しなさい・・・
助けてくれた人達、 妨害をした人達、 無関心だった人達に。
あらゆる人に感謝しなさい、
なぜなら、彼らは一丸となってブッダが生まれる、
あなたがブッダになる状況を、創り出しているからだ。
OSHO:Book of Wisdom, Chapter5
「アティーシャの知恵の書、上巻」(市民出版社)
by mudito
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去年の夏 ある人が現れたときから
私の苦痛ははじまりました。
なんでこんなことに と現実をうらみ
冬には 人生でも数本の指に入るくらいの ひどい風邪をひきました。
ひとつ片付いても また次・・・
その繰り返しでした。
でも 最近になって思ったんです。
もし 何か意味があってその人が私の前に現れたなら
それは なんなんだろう・・・ って
天地に祈ってみたり
考えてみたりしながら 日を過ごすうちに
ついにその意味がわかりました
そして
その瞬間から すべてが変わりました
あれほど苦痛だったことが
自分にとって なんでもないことになったんです。
私が理解したことを 補足してくれるような出来事にも遭遇しました
もちろん もうちょっとこうしてくれたら と思うこともありますが 今は
まあ 今度あったら お願いしよう 急ぐこともないし
と なっています
心が信じられないくらい楽になったのです
本当に不思議です
まさに このOSHOの講和で語られているように
どんな人であっても それは 自分を導いてくれていたり
教えをさずけてくれているのかな
と 今は思います
自分を会社から追い出す人がいたら
もしかしたら
あなたが 自分からは出ていけないので
そこから 出してくれたのかもしれないんですよね
あなたが 行くべき道へ行けるように
もしそこで 相手を恨んで ずっと相手にフォーカスしてしまったら
せっかく天地が用意した本道がそこにあっても
見えないまま 別の道を歩き続けることになるかもしれません
何かに自分の心が反応するとしたら
そこには 何かがあるんだと思います
だって 他の人にとってそれは なんでもないことかもしれません
でも あなたは 反応した・・・
今度そんなことがあったら
いいことでもわるいことでもなく
ただ
どういう意味があるのかと ぜひぜひ自分に問いかけて見てください
時間がかかっても かならず天は答えをくれると思います
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