「ノー」がもたらす自由は、幼稚だ
muditoさんの日記より
337,「ノー」がもたらす自由は、幼稚だ
<OSHOの講話より>
意識は、自由をもたらす。
自由とは、正しい行為をする自由だけではない。
自由の意味が、それだけのものだったなら、
それはどんな自由かね?
正しい行為をする自由しかなかったら、
それは自由ではない。
自由とは、2つの選択肢があることを意味する。
正しい行為をするという選択肢、
そして、誤った行為をするという選択肢だ。
自由が意味するのは、「イエス」か「ノー」かを選ぶ権利だ。
これから言うのは微妙なことだが、理解しなければいけない。
「イエス」と言う時よりも、「ノー」と言う時の方が、
自由な感じがする・・・。
哲学的なことを言っているのではない。
これは、あなたが自分の内側に観察できる、単純な事実だ。
「ノー」と言う時にはいつも、自由な感じがする。
「イエス」と言う時にはいつも、自由が失われた感じがする。
「イエス」とは、自分が服従したこと、
身をまかせたことを、意味するからだ。
そこに、自由などあるだろうか?
「ノー」とは、かたくなであること、
超然としていることを意味する。
「ノー」とは、自分を主張していること、
自分には、闘う準備があることを意味する。
「イエス」と言うより、「ノー」と言った方が、
自分の輪郭が、はっきりする。
「イエス」はあいまいで、雲のようだ。
「ノー」は堅く、岩のような存在感がある。
心理学者達によれば、子供は7歳から14歳にかけて、
「ノー」と言う回数を増やすのを、学んでいくそうだが、
その理由もここにある。
子供は、「ノー」と言うことで、
心理的に、母親の子宮から離れるのだ。
「ノー」と言わなくてもよい時でさえ、「ノー」と言う。
「イエス」と言った方が、自分にとっていい時でさえ、「ノー」と言う。
子供が、「ノー」と言う回数を増やすのは、
そうしなければならない、多くの理由があるからだ。
14歳で、性的に成熟する時までに、
母親に対して、決定的な「ノー」を言わなければならない。
その時には、別の女性に恋するようになるのだから。
それは男の子にとって、母親に対して、
決定的な「ノー」を言うことであり、母親に背を向けることだ。
その子はこう言っている・・・
「あなたとは終わりだ。 僕は、自分の女を見つけた。
僕は、独立した個人になった。 自分の人生を生きたいんだ。
自分の好きなことがしたいんだ」
「髪を短く切りなさい」と親が言うなら、子供は長髪にするだろう。
「髪を長く伸ばしなさい」と親が言うなら、子供は短髪にするだろう。
長い目で見てみるといい。
ヒッピーが親になったら、子供が短髪になるのを目にするだろう。
子供は、「ノー」と言うことを、学ばなければならないのだから。
「清潔さは、敬神につぐ美徳」などと、親が言うならば、
子供はゴミにまみれて生活する。 子供は不潔に暮らすだろう。
風呂に入らない、身だしなみを整えない、石鹸を使わない。
石鹸は肌に悪いとか、不自然だとか、動物は石鹸を使わないとか、
あれこれと理由をつけるだろう。 理由はいくらでも考えられる。
だが、深いところを見るならば、
そうした理由は、表面の覆いにすぎない。
本当のところは、「ノー」と言いたいのだ。
そして当り前のことながら、「ノー」と言うには理由がいる。
だから、「ノー」は、自由の感触をもたらす。
それどころか自分は頭がいい、という感触さえもたらす。
「イエス」と言うのに、頭はいらない。
あなたが「イエス」と答えるならば、
「どうして?」と、聞かれることはない。
「イエス」と言っているのに、その理由を、
わざわざ詮索しようとする人はいない。
すでに「イエス」と言っているのだから、
理由づけや、議論の余地はない。
あなたが「ノー」と答えるならば、
必ず「どうして」、と聞かれることになる。
それで、あなたは頭が鍛えられる。
あなたには、くっきりした輪郭とスタイルが生まれ、
自由が備わる。
「ノー」の背後にある、心理を観察しなさい。
人間にとって、調和してあることは難しい。
人間には、意識があるからだ。
意識は自由をもたらし、
そして自由は、「ノー」と言う能力をもたらす。
そして「ノー」と言う機会は、
「イエス」と言う機会よりも多い。
だが、「イエス」がなければ、調和はない。
「イエス」とは、調和だ。
だが「イエス」と言っても、自由でいられ、
「イエス」と言っても、独自でいられ、
「イエス」と言っても、奴隷になることのないほどにまで、
成長し、成熟するには、時間がかかる。
「ノー」がもたらす自由は、とても幼稚な自由だ。
7歳から14歳までの子供には、それもよいだろう。
だが、そんな自由にとらわれて、
生涯にわたり「ノー」を言い続ける人は、
成長するのを、止めた人だ。
究極の成長とは、
子供が「ノー」という時と、同じ喜びをもって、
「イエス」と、言えるようになることだ。
これは、第2の子供時代だ。
そして、途方もない自由と喜びをもって、
何の代償も求めず、無条件に、ためらいなく「イエス」と言える人、
純粋で、単純な喜びをもって、純粋で単純な「イエス」を言える人は、
賢者になったのだ。
その人は、再び調和の中で生きている。
そして、そのような人の調和は、
木々や動物や鳥たちの調和とは、まったく次元の異なるものだ。
木々や動物や鳥たちが、調和の中で生きるのは、
彼らには、「ノー」と言えないからだが、
賢者が調和の中で生きるのは、彼が「ノー」と言わないからだ。
そしてこの両者の間、鳥たちとブッダとの間に、
成長し切らない幼稚な人類全員がいて、どこかで引っかかったまま、
未だに「ノー」と言うことで、何がしかの自由の感触を得ようとしている。
「ノー」と言うことを学んではならない、と言っているのではない。
「ノー」と言うべき時には、「ノー」と言うことを学びなさい。
だが、そこで止まってはならない、と私は言っている。
「イエス」とともに到来する、
より高次の自由、より大いなる調和へと、
ゆっくりと、目を向けるようになりなさい。
そこには、人の理解を超えるような、
大いなる平和がある。
OSHO:The Book Of Wisdom, Vol. 1, #12 より抜粋
337,「ノー」がもたらす自由は、幼稚だ
<OSHOの講話より>
意識は、自由をもたらす。
自由とは、正しい行為をする自由だけではない。
自由の意味が、それだけのものだったなら、
それはどんな自由かね?
正しい行為をする自由しかなかったら、
それは自由ではない。
自由とは、2つの選択肢があることを意味する。
正しい行為をするという選択肢、
そして、誤った行為をするという選択肢だ。
自由が意味するのは、「イエス」か「ノー」かを選ぶ権利だ。
これから言うのは微妙なことだが、理解しなければいけない。
「イエス」と言う時よりも、「ノー」と言う時の方が、
自由な感じがする・・・。
哲学的なことを言っているのではない。
これは、あなたが自分の内側に観察できる、単純な事実だ。
「ノー」と言う時にはいつも、自由な感じがする。
「イエス」と言う時にはいつも、自由が失われた感じがする。
「イエス」とは、自分が服従したこと、
身をまかせたことを、意味するからだ。
そこに、自由などあるだろうか?
「ノー」とは、かたくなであること、
超然としていることを意味する。
「ノー」とは、自分を主張していること、
自分には、闘う準備があることを意味する。
「イエス」と言うより、「ノー」と言った方が、
自分の輪郭が、はっきりする。
「イエス」はあいまいで、雲のようだ。
「ノー」は堅く、岩のような存在感がある。
心理学者達によれば、子供は7歳から14歳にかけて、
「ノー」と言う回数を増やすのを、学んでいくそうだが、
その理由もここにある。
子供は、「ノー」と言うことで、
心理的に、母親の子宮から離れるのだ。
「ノー」と言わなくてもよい時でさえ、「ノー」と言う。
「イエス」と言った方が、自分にとっていい時でさえ、「ノー」と言う。
子供が、「ノー」と言う回数を増やすのは、
そうしなければならない、多くの理由があるからだ。
14歳で、性的に成熟する時までに、
母親に対して、決定的な「ノー」を言わなければならない。
その時には、別の女性に恋するようになるのだから。
それは男の子にとって、母親に対して、
決定的な「ノー」を言うことであり、母親に背を向けることだ。
その子はこう言っている・・・
「あなたとは終わりだ。 僕は、自分の女を見つけた。
僕は、独立した個人になった。 自分の人生を生きたいんだ。
自分の好きなことがしたいんだ」
「髪を短く切りなさい」と親が言うなら、子供は長髪にするだろう。
「髪を長く伸ばしなさい」と親が言うなら、子供は短髪にするだろう。
長い目で見てみるといい。
ヒッピーが親になったら、子供が短髪になるのを目にするだろう。
子供は、「ノー」と言うことを、学ばなければならないのだから。
「清潔さは、敬神につぐ美徳」などと、親が言うならば、
子供はゴミにまみれて生活する。 子供は不潔に暮らすだろう。
風呂に入らない、身だしなみを整えない、石鹸を使わない。
石鹸は肌に悪いとか、不自然だとか、動物は石鹸を使わないとか、
あれこれと理由をつけるだろう。 理由はいくらでも考えられる。
だが、深いところを見るならば、
そうした理由は、表面の覆いにすぎない。
本当のところは、「ノー」と言いたいのだ。
そして当り前のことながら、「ノー」と言うには理由がいる。
だから、「ノー」は、自由の感触をもたらす。
それどころか自分は頭がいい、という感触さえもたらす。
「イエス」と言うのに、頭はいらない。
あなたが「イエス」と答えるならば、
「どうして?」と、聞かれることはない。
「イエス」と言っているのに、その理由を、
わざわざ詮索しようとする人はいない。
すでに「イエス」と言っているのだから、
理由づけや、議論の余地はない。
あなたが「ノー」と答えるならば、
必ず「どうして」、と聞かれることになる。
それで、あなたは頭が鍛えられる。
あなたには、くっきりした輪郭とスタイルが生まれ、
自由が備わる。
「ノー」の背後にある、心理を観察しなさい。
人間にとって、調和してあることは難しい。
人間には、意識があるからだ。
意識は自由をもたらし、
そして自由は、「ノー」と言う能力をもたらす。
そして「ノー」と言う機会は、
「イエス」と言う機会よりも多い。
だが、「イエス」がなければ、調和はない。
「イエス」とは、調和だ。
だが「イエス」と言っても、自由でいられ、
「イエス」と言っても、独自でいられ、
「イエス」と言っても、奴隷になることのないほどにまで、
成長し、成熟するには、時間がかかる。
「ノー」がもたらす自由は、とても幼稚な自由だ。
7歳から14歳までの子供には、それもよいだろう。
だが、そんな自由にとらわれて、
生涯にわたり「ノー」を言い続ける人は、
成長するのを、止めた人だ。
究極の成長とは、
子供が「ノー」という時と、同じ喜びをもって、
「イエス」と、言えるようになることだ。
これは、第2の子供時代だ。
そして、途方もない自由と喜びをもって、
何の代償も求めず、無条件に、ためらいなく「イエス」と言える人、
純粋で、単純な喜びをもって、純粋で単純な「イエス」を言える人は、
賢者になったのだ。
その人は、再び調和の中で生きている。
そして、そのような人の調和は、
木々や動物や鳥たちの調和とは、まったく次元の異なるものだ。
木々や動物や鳥たちが、調和の中で生きるのは、
彼らには、「ノー」と言えないからだが、
賢者が調和の中で生きるのは、彼が「ノー」と言わないからだ。
そしてこの両者の間、鳥たちとブッダとの間に、
成長し切らない幼稚な人類全員がいて、どこかで引っかかったまま、
未だに「ノー」と言うことで、何がしかの自由の感触を得ようとしている。
「ノー」と言うことを学んではならない、と言っているのではない。
「ノー」と言うべき時には、「ノー」と言うことを学びなさい。
だが、そこで止まってはならない、と私は言っている。
「イエス」とともに到来する、
より高次の自由、より大いなる調和へと、
ゆっくりと、目を向けるようになりなさい。
そこには、人の理解を超えるような、
大いなる平和がある。
OSHO:The Book Of Wisdom, Vol. 1, #12 より抜粋

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