自分に関心を持ちすぎないように
muditoさんの日記より
328,自分に関心を持ちすぎないように
<OSHOの講話より>
自分自身に関心を持ち過ぎるのは、
あらゆる病気の中で、最大のものだ。
あなたは幸せになれないし、
自分を楽しむことも出来ない。
どうして楽しめるだろう?
内側に、問題が沢山あるのだ!
問題、また問題、もっと問題・・・他には何にもない!
それに、解決策はないように見える。
どうしたらいい?
あなたは気が狂う。
誰でも、内側では狂っているのだ。
時には、狂うことも必要だ。
それで怒りが生まれる。
怒りというのは、一時的な狂気だ。
時々、漏れるままにしないと、
それがいっぱいにたまって爆発して、
あなたは気違いになるだろう。
だが、始終それに関心を向け続けているとしたら、
あなたは、すでに気が違っている。
私の観たところでは、
瞑想をしたり、祈ったり、真理を探究し、探し求めている人達は、
そうでない人達よりも、もっと神経症にかかりやすい。
その理由は、
彼等は、自分自身のことに関心を持ち過ぎていて、
とても自己中心的で、始終あれこれ考えているからだ。
このブロック、あのブロック、この怒り、あの悲しみ、
頭痛、背中の痛み、お腹、足・・・などなど、
ひっきりなしに、内側へと動いているのだ。
自分に決して満足しない、満足することが出来ないのだ。
というのも身体というのは、とても広大な現象であって、
様々なことが進行しているからだ。
何も起こっていなければ、彼等はそれでも心配する。
なぜ、何も起こっていないのか?
そしてすかさず、何かを作り出さなくてはならない。
それが彼等の毎日の仕事、
すべきことになってしまったからだ。
そうでないと、彼等は自分を見失う。
さて、どうしたらいいだろう?
何も起きていない!
私に何も起こってないなんて、
そんなことがあり得るだろうか?
何かが起きていて初めて、
彼等は、自分のエゴを感じるのだ。
それは憂鬱かもしれないし、
悲しみ、怒り、または病気かもしれないが、
何かが起きていれば満足する、
自分を感じることが出来るのだ。
子供達を見たことがあるだろうか?
彼等は、存在しているのを感じる為に、
自分をつねる。
その子供が、まだあなたの中にいるのだ。
自分が存在しているのかどうか知るために、
あなたは自分をつねってみたい。
勇者が死ぬのは一度だけ、
臆病者は何百万回と死ぬ、と言う。
それは彼等が、
自分は死んでいるのがどうか、
何度も何度もつねって、感じているからだ。
病気のおかげで、
あなたは自分のエゴを、保ち続けることが出来る。
あなたは、何かが起きているのを感じる。
もちろん、それは至福でもエクスタシーでもなく、
悲しみなのだが・・・
「誰も、私ほど悲しんではいない」、
「私ほどブロックのある人はいない」とか、
「私ほどの偏頭痛の持ち主はいない」・・・
あなたは優越感に浸る、
誰もが、あなたより劣っているのだ。
自分自身に関心を持ち過ぎているなら、
覚えておきなさい。
あなたは、達成することが出来ない。
この過大な関心が、あなたを閉じ込めてしまうだろう。
そして、道はあなたの目の前にある。
あなたは目を閉じるのではなく、
開かなくてはいけないのだ。
OSHO:And the Flowers Showered より抜粋
328,自分に関心を持ちすぎないように
<OSHOの講話より>
自分自身に関心を持ち過ぎるのは、
あらゆる病気の中で、最大のものだ。
あなたは幸せになれないし、
自分を楽しむことも出来ない。
どうして楽しめるだろう?
内側に、問題が沢山あるのだ!
問題、また問題、もっと問題・・・他には何にもない!
それに、解決策はないように見える。
どうしたらいい?
あなたは気が狂う。
誰でも、内側では狂っているのだ。
時には、狂うことも必要だ。
それで怒りが生まれる。
怒りというのは、一時的な狂気だ。
時々、漏れるままにしないと、
それがいっぱいにたまって爆発して、
あなたは気違いになるだろう。
だが、始終それに関心を向け続けているとしたら、
あなたは、すでに気が違っている。
私の観たところでは、
瞑想をしたり、祈ったり、真理を探究し、探し求めている人達は、
そうでない人達よりも、もっと神経症にかかりやすい。
その理由は、
彼等は、自分自身のことに関心を持ち過ぎていて、
とても自己中心的で、始終あれこれ考えているからだ。
このブロック、あのブロック、この怒り、あの悲しみ、
頭痛、背中の痛み、お腹、足・・・などなど、
ひっきりなしに、内側へと動いているのだ。
自分に決して満足しない、満足することが出来ないのだ。
というのも身体というのは、とても広大な現象であって、
様々なことが進行しているからだ。
何も起こっていなければ、彼等はそれでも心配する。
なぜ、何も起こっていないのか?
そしてすかさず、何かを作り出さなくてはならない。
それが彼等の毎日の仕事、
すべきことになってしまったからだ。
そうでないと、彼等は自分を見失う。
さて、どうしたらいいだろう?
何も起きていない!
私に何も起こってないなんて、
そんなことがあり得るだろうか?
何かが起きていて初めて、
彼等は、自分のエゴを感じるのだ。
それは憂鬱かもしれないし、
悲しみ、怒り、または病気かもしれないが、
何かが起きていれば満足する、
自分を感じることが出来るのだ。
子供達を見たことがあるだろうか?
彼等は、存在しているのを感じる為に、
自分をつねる。
その子供が、まだあなたの中にいるのだ。
自分が存在しているのかどうか知るために、
あなたは自分をつねってみたい。
勇者が死ぬのは一度だけ、
臆病者は何百万回と死ぬ、と言う。
それは彼等が、
自分は死んでいるのがどうか、
何度も何度もつねって、感じているからだ。
病気のおかげで、
あなたは自分のエゴを、保ち続けることが出来る。
あなたは、何かが起きているのを感じる。
もちろん、それは至福でもエクスタシーでもなく、
悲しみなのだが・・・
「誰も、私ほど悲しんではいない」、
「私ほどブロックのある人はいない」とか、
「私ほどの偏頭痛の持ち主はいない」・・・
あなたは優越感に浸る、
誰もが、あなたより劣っているのだ。
自分自身に関心を持ち過ぎているなら、
覚えておきなさい。
あなたは、達成することが出来ない。
この過大な関心が、あなたを閉じ込めてしまうだろう。
そして、道はあなたの目の前にある。
あなたは目を閉じるのではなく、
開かなくてはいけないのだ。
OSHO:And the Flowers Showered より抜粋

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